(清水歴史探訪より)
今のお寺のイメージとは違い、かなり大規模だったらしい、尾羽廃寺。発掘調査から、当時の技術なども明らかになりつつあります。
瓦葺き(かわらぶき)の建物、いわゆるこういった瓦が、今ですと、屋根の上に瓦があるというお宅が大半だと思いますが、瓦葺きの建物というのはお寺が造られるようになってから初めて日本に入ってまいりました。
それですので、立派なで規模も大きいですし、回りから見たときにひときわ目立つような存在であったという風に思われます」
「例えば、瓦などで特徴などはありますでしょうか。」
「そうですね、今の屋根瓦と違いまして、本瓦葺き(ほんがわらぶき)という瓦の葺き方になります。平たい瓦と丸い瓦をこう半分に割ったような丸瓦、これの組合せを屋根の上にしてですね、軒(のき)の所には模様のついた軒瓦(のきがわら)というものが葺かれております。」
写真は、上総国分寺の古代瓦を実際に葺いた状態
「大きさも、今の住宅の瓦なんかと比べると、ずいぶん大きいですね。」
「ええ、そうですね。1回り2回りぐらい大きいものだと思います。大体長さでいいますと40センチ、もう少しありますかね、そういった大きさをしております。」
「今ちょうど、1組の瓦がこの目の前に展示されているんですけれども、左右で色が違っているようですが。」
「そうですね。窯(かま)を使って、こういった瓦なんかは焼かれるんですけれども、その時に『うまく焼けた、ちょっと失敗した』というのもあります。
非常に硬く、灰色といいますかね、青灰色(せいかいしょく)をして、叩くとキンキンとするような瓦もありますし、多少こう赤みを帯びて、もろい瓦なんかもあります。」
「当時の技術が、まだ完全ではなかったところがあるんですね。」
「そうですね。日本に瓦が伝わってきて、静岡でも恐らく最初に造られたお寺の瓦だと思いますので、そういったところでは、まだ技術的に不十分な部分があったのかもしれません。
「そうですね、まずは礎石(そせき)と言いまして、建物の柱を載せる石がまず地面に置かれます。上には非常に重たいものが載りますので、ただ柱を立てただけでは倒れてしまったり、沈んでしまったりということがありますので、まずは礎石という石が置かれます。
その礎石が置かれるところも、そのままの地面では、礎石もろとも沈んでしまうということもありますので、まず多少こう、地面を掘り下げまして、その中に土を少しずつ入れて何度もこう叩き締めて、これを版築(はんちく)といいますけれども、非常に硬い地面を造って、基礎を造ってですね、その上に建物を建てると、そういう工夫がなされております。
瓦を組み合わせてですね、降った雨を排水するための排水溝だと思われますけれども、こういった工夫もなされております。」
「こういう点では、今の建築とあまり変わらないところもあるわけですね。」
「そうですね、今の建築のもとになるものだという風に考えて宜しいかと思います。」
さらに、周辺の調査から、この地域の当時の姿が浮かび上がってきています。
「このお寺の周りにも、いろいろ建物があったわけですか。」
「そうですね。先ほど申し上げた金堂(こんどう)・講堂、それから塔の推定位置、その他に門の一部ではないかと思われるところも見つかっております。
その他にですね、掘立柱(ほったてばしら)の建物、先ほどの礎石の建物とは違いまして、今度は地面に穴を掘りまして、そこに柱を立てて埋めて固定する、というタイプの建物が出ております。
掘立柱の建物というのは、可能性としては、庵原郡(いはらぐん)、昔の廬原(いほはら)の国の後を継いでこの辺りが庵原郡と呼ばれていた時期があるんですけれども、その時期にもですね、役所に関わる建物ではないかという風にも想定されます。」
「そうしますと、当時の官庁街でもあったわけですか。」
「そうですね。このあたりにあった庵原郡が、それが時にもこの掘立柱の建物跡は、中にも柱が立っております。
総柱(そうばしら)という風にこういったものを呼びますけれども、これは、中に重い物を入れるために柱の数が多くなっているということですので、あるいは倉庫、それからいわゆる蔵がこう立ち並んでいるような状態ではないかと思われます。」
「その時代から、この地域というのは栄えていた場所なんですね。」
「そうですね。かなりこの地域の中心的なエリアだったという風に考えて宜しいかと思います。」