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4.東海道は五拾三次と五拾七次

(清水歴史探訪より)

 

「それだけ宿駅制度というのがしっかりしていたわけなんですけれども、ではどうしてこの東海道、『53次』で広まってしまっているんでしょうか、現在。」

 

「これはですね、家康は初めに京都まで作ったんですね。

 

 大阪に君臨している淀君と秀頼がおりますので、大阪まで東海道を設定しなかったのです。

 そういうことで、初めは朝廷が京都にありますので、ここも大事だということでこの制度を作ったわけですが、その後大阪まで延長され、幕府の役人は大阪城へ行き、西の大名を監督する仕事をずっとやっていたので、役人としては大阪に行く人が多かったと思います。

 

 ただ、一般の方は京都に憧れましたので、大阪には行かずにむしろ京都を訪ねる旅人が多くあったんですね。そういうことから、当時から絵を描く人は京都を扱うことが多かったのです。

 そして、幕末に広重が保永堂(ほうえいどう)さんから依頼されて浮世絵を作るときに、京都までの53次を描きました。あと日本橋と京都三条大橋を入れて、55枚を描いたわけですが、その時に、その題として『東海道53次』と書き、その後この絵が売れに売れましたので、日本中が東海道は53次と理解したわけです。

 広重は生涯に15シリーズもの東海道を描いており、その代表的なものには次の様なものがある。   

  

1832----保永堂版東海道五十三次 天保3年(1832) 広重36

1840----佐野喜版「東海道五十三次」ー「狂歌入東海道」 天保11年(1840) 広重44

1842----江崎屋版「東海道五十三次」ー行書東海道 天保13年(1842) 広重46

1843----伊場仙版「東海道五十三対」 天保14年(1843)広重47歳。

1847----丸清版「東海道五十三次」ー「隷書東海道」  弘化4年(1847) 広重51

1847----藤慶版「東海道五十三図会」ー「美人東海道」 弘化4年(1847)広重51

1844-48--有田屋版「東海道五十三次」 弘化年間(1844-1848) 広重48-52

1848-54--蔦屋版「東海道五十三次」  嘉永年間(1848-54) 広重52-58

1852----村市版「東海道五十三次」ー「人物東海道」 嘉永5年(1852) 広重56

1854-55--丸久版「双筆五十三次」ー「双筆東海道」 安政元年~2年(1854-1855)広重58-59

1855----蔦屋版「東海道五拾三次名所図絵」ー竪絵東海道」 安政21855)広重59 

丸清版・隷書東海道五十三次の紹介
 
 本来ならば、ここで保永堂版の東海道五十三次を紹介すべきなのでしょうが、保永堂版の東海道五十三次は後で、『7.解説「東海道五十七次」の魅力と見所』で紹介いたします。そこで、次に有名な『丸清版・隷書東海道五十三次(隷書東海道と呼ばれています。)』を紹介いたします。
  なお、保永堂版の東海道五十三次は広重36歳の時に、行書東海道は46歳の時にそして隷書東海道五十三次は51歳の時に完成しております。
 
日本橋
①品川宿・品川・鮫州の茶や
②川崎宿・川崎・六郷のわたし
③神奈川宿・加奈川・台の茶や
④保土ヶ谷宿・程か谷・かたびら橋 かたびら川
⑤戸塚宿・戸塚
⑥藤沢宿・藤沢
⑦平塚宿・平塚
⑧大磯宿・大磯・鴫立沢西行庵
⑨小田原宿・小田原・酒匂川
⑩箱根宿・箱根・夜中松明とり
⑪三嶋宿・三島
⑫沼津宿・沼津
⑬原宿・原
⑭吉原宿・吉原・名所左り不二
⑮蒲原宿・蒲原・富士川渡舟
⑯由比宿・由井
⑰興津宿・奥津・清見かせき 清見寺
⑱江尻宿・江尻
⑲府中宿・府中
⑳丸子宿・鞠子
㉑岡部宿・岡部・宇津の山
㉒藤枝・藤枝
㉓嶋田・島田・大井川
㉔金谷宿・金谷・金谷坂 かなや駅 大井川
㉕日坂宿・日阪・夜啼石 無間山 小夜の中山
㉖掛川宿・懸川・秋葉山別道
㉗袋井宿・袋井・名物遠川だこ
28見附宿・見附・天竜川渡舟
㉙浜松宿・はま松
㉚舞坂宿・舞坂
㉛新居宿・荒井
㉜白須賀宿・白須賀・汐見坂
㉝二川宿・二川・猿が馬場
㉞吉田宿・吉田・六月十五日 天王祭
㉟御油宿・御油・古街道本野か原
㊱赤坂宿・赤阪
㊲藤川宿・藤川
㊳岡崎宿・岡崎・矢はぎ川
㊴池鯉鮒宿・池鯉鮒(ちりゅう)
㊵鳴海宿・鳴海・名産絞り店
㊶熱田宿・宮・七里の渡し 熱田鳥居 寝覚の里
㊷桑名宿・桑名・七里の渡舟
㊸四日市宿・四日市・日永村追分 参宮道
㊹石薬師宿・石薬師
㊺庄野宿・庄野
㊻亀山宿・亀山
㊼関宿・関
㊽坂下宿・坂の下
㊾土山宿・土山
㊿水口宿・水口・平松山美松
51・石部宿・石部
52・草津宿・草津・矢ばせの渡口 琵琶湖風景
53・大津宿・大津
京都・京・三条大はし
 先ほどご説明しましたけれども、後から大阪へ延長しているので、大津追分から先、東海道は2つあったんです。
 53次も嘘ではございません。確かに、53次の伝馬制は最後まで残りました。2つの東海道があったわけです。
 そのうち京都だけが浮世絵で紹介されて日本中に浸透してしまった。そして、明治以降も教科書に必ず、『広重は東海道53次を描きました』と載りますので、小学校の段階で、日本中で『東海道は京都まで53次』と理解することになってしまったのですね。
 広重は恐らくですね、やはり『売るには京都の町を紹介したい』と、こういうことだったと思います。江戸の人は『京都の街、陛下がおられ、御公家さんがおられる。他の街とは違う。一度行ってみたい』、こういう夢をもっていたみたいです。
 京都の旅が注目されるということを熟知していましたので、53次を京都までということで表したわけでございます。」

「現在でいうところの、マーケティング戦略みたいなものもあったんですね。」

「そうですね。その前の京都で非常に売れたことも広重は知っていましたので、まさに『採算ベースを考えると京都だな』と、こういうことになったのだと思います。」 

 

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税理士法人森田いそべ会計
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代表 森田行泰
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