(清水歴史探訪より)
「それだけ宿駅制度というのがしっかりしていたわけなんですけれども、ではどうしてこの東海道、『53次』で広まってしまっているんでしょうか、現在。」
「これはですね、家康は初めに京都まで作ったんですね。
大阪に君臨している淀君と秀頼がおりますので、大阪まで東海道を設定しなかったのです。
そういうことで、初めは朝廷が京都にありますので、ここも大事だということでこの制度を作ったわけですが、その後大阪まで延長され、幕府の役人は大阪城へ行き、西の大名を監督する仕事をずっとやっていたので、役人としては大阪に行く人が多かったと思います。
ただ、一般の方は京都に憧れましたので、大阪には行かずにむしろ京都を訪ねる旅人が多くあったんですね。そういうことから、当時から絵を描く人は京都を扱うことが多かったのです。
そして、幕末に広重が保永堂(ほうえいどう)さんから依頼されて浮世絵を作るときに、京都までの53次を描きました。あと日本橋と京都三条大橋を入れて、55枚を描いたわけですが、その時に、その題として『東海道53次』と書き、その後この絵が売れに売れましたので、日本中が東海道は53次と理解したわけです。
1832年----保永堂版東海道五十三次 天保3年(1832) 広重36歳
1840年----佐野喜版「東海道五十三次」ー「狂歌入東海道」 天保11年(1840) 広重44歳
1842年----江崎屋版「東海道五十三次」ー行書東海道 天保13年(1842) 広重46歳
1843年----伊場仙版「東海道五十三対」 天保14年(1843)広重47歳。
1847年----丸清版「東海道五十三次」ー「隷書東海道」 弘化4年(1847) 広重51歳
1847年----藤慶版「東海道五十三図会」ー「美人東海道」 弘化4年(1847)広重51歳
1844-48--有田屋版「東海道五十三次」 弘化年間(1844-1848) 広重48-52歳
1848-54--蔦屋版「東海道五十三次」 嘉永年間(1848-54) 広重52-58歳
1852----村市版「東海道五十三次」ー「人物東海道」 嘉永5年(1852) 広重56歳
1854-55年--丸久版「双筆五十三次」ー「双筆東海道」 安政元年~2年(1854-1855)広重58-59歳
1855年----蔦屋版「東海道五拾三次名所図絵」ー竪絵東海道」 安政2年(1855)広重59歳
「現在でいうところの、マーケティング戦略みたいなものもあったんですね。」
「そうですね。その前の京都で非常に売れたことも広重は知っていましたので、まさに『採算ベースを考えると京都だな』と、こういうことになったのだと思います。」