(清水歴史探訪より)
「宿場ではどんなことが行われていたんですか。」
「宿場は3つの使命があったんですね。
もう一つは、あまり知られていませんが、継飛脚(つぎびきゃく)ということで、幕府の公文書、あるいは公的な荷物、これを運ぶという仕事でございます。これは他の大名も一切使えず、幕府の物しか運ばなかった仕事でございます。
それからもう1つが、休泊所、休むところ・泊まるところを提供するということでございます。ただし、江戸から京、あるいは大阪まで行ってもすべての宿に泊まるわけではございません。旅人の5分の1から4分の1の人しかその宿場は利用しなかったということになります。あとは通過ということでございました。」
写真は、35次の御油宿(ごゆしゅく)の袖をとって強引に客引きする女
「そうしますと、宿場というのはかなり幕府、お上(かみ)の為の用というのが多かったんですね。」
「そうです。あくまでも幕府の仕事のために家康が作りました。
ただし、徐々に江戸時代265年の中に平和の時代が続き、一般の方も旅をするようになりました。そして幕府も常に公用の旅で使うわけではございませんので、余裕があれば一般の人に人足も馬も使ってもらっていいよ、という制度でございましたので、徐々に一般の方が使うようになりました。
したがって、慶長6年にこの東海道宿駅制を始めたときには各宿駅に人足を36人、馬も36匹用意しなさいということでスタートしましたが、旅人が増えるにしたがってその数は増え、幕末には東海道は『100人100疋』と言われました。
中山道はこれが『50人50疋』、その他の3街道は『25人25疋』が原則でございましたので、そういう意味では旅人の数が街道によってずいぶん違うということが分かっていただけると思います。」
「そうですね、やはり旅人が多くて、もちろん幕府の役人なんかは本陣に無料で泊まるということもありましたので、すべて幕府や役人がお金を落としたわけではありませんが、一般の旅人が使うようになって、宿場は潤うようになったわけでございます。」
「幕府のお役人は無料で泊まっていったんですか。」
「基本的に朱印状(写真)を持っていた場合には無料でございました。馬、あるいは人足も無料で使うことが許されました。茶店なんかに寄ればもちろん払ったわけですけれども、基本的に本陣の場合は無料で泊まれました。ただし、志は置いていったようでございます。」
「そうしますと、この蒲原宿も『100人100疋』用意をすることになったわけですね。」
「そうですね、途中の段階から『100人100疋』を用意したわけでございます。
そしてそれを補佐する年寄り、さらに帳面を付ける帳付け、あるいは馬とか人足を扱う馬差(うまさし)、あるいは人足差(にんそくさし)という宿役人がおりました。
ですから、そこの宿場の問屋場がどこにあるかというのは、旅人は常に注目し、そこに行って荷物を新しい馬に預ける、こういうようなことをしていたわけでございます。『どっか泊まりたいな』ということでありますと、宿泊所の斡旋もしてくれたというのが問屋場でございます。」