(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~清水歴史探訪~~
毎月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
歴史街道として、江戸の雰囲気を残しながら整備されている、清水区の旧蒲原宿。前回は「東海道町民生活歴史館」・「東海道57次 中山道67次交流館」となっている志田邸を、館主の志田威(しだ・たけし)さんにご案内いただきましたが、『なぜ東海道が57次なのか』という疑問が残りました。この謎について、今回も志田さんに伺いました。
「家康が慶長6年、1601年でございますけれども、東海道を新たに定めて宿駅伝馬制を敷いたときには、江戸から京都まででございました。当時約40の宿駅を置いて、この伝馬制度をスタートさせたわけでございます。
そして徐々に増やしまして、秀忠の時代に『大坂夏の陣』がございまして、もちろん家康が陣頭指揮をとったわけですが、豊臣家を滅しました。
大坂に君臨していた豊臣家が滅亡しますと、大坂の重要性を熟知していた家康は秀忠に、大坂まで延長するように指示したわけでございます。
実際に延びたときには、家康が亡くなられた直後でございますけれども、4つ宿をその間に置きましたので、最終的には大坂まで宿駅を数えると57になったわけでございます。
53になったのも同じ時期でございまして、最後にできた宿は庄野の宿と言われております。今ですと、三重県でございます。この宿が出来て京都まで数えると53、大坂まで数えると57になりました。
最後にできた庄野宿の浮世絵 →
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そういう意味で、53次あるいは57次の完成より先に、大坂まで行くことはできました。
ですから、その時は大坂まで行ってもまだ57はなかったわけですが、最後の宿、庄野宿が出来たのは寛永元年、1624年でございますので、最初に宿駅制度を始めてから23年かかりましたけれども、大坂までの57次が完成しました。
「東海道分間延絵図」は、江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図です。
幕府は東海道の他にも、中山道、甲州道中、奥州道中、日光道中の五街道と、それらに付属する街道地図も同時期に作成しています。それらを含めて「五街道分間延絵図」と呼んでおり、「東海道分間延絵図」はその一部で、東海道だけで全13巻に及びます。
「五街道分間延絵図」作成の命が出されたのは寛政年中(1789~1801)のことで、文化3年(1806)に完成しています。
絵図には、沿道の主な建造物では、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが丹念に描かれています。また一里塚、道標、橋、高札なども描かれています。
縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれており、道の曲がりの急なところは、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がりにし、そのわきにたとえば北に何分と記して、本来の曲がり具合を示しています。
「宿駅の数というのは、整備に従って変わっていったわけですか。」
「そうです。宿駅は増えて、あるいは街道によっては減っていることもあります。
中山道でも一時、一部の宿場が廃止されて減っておりますし、甲州道中、いわゆる甲州街道も皆さんご存じの東京の新宿の宿、内藤新宿と申しますが、ここは後から宿駅の権限を与えられて宿駅に指定されました。