第1章 少年時代
1.生いたち
駿河の国の清水港は、駿府城近くから駿河湾にそそぐ巴川の河口。巴川の西側には、上流から上町(かみちょう)、上二丁目、本町(ほんちょう)、袋町(ふくろまち)、木魚町(もとえまち)、新魚町、中町、美濃輪と続く八ケ町からなっていた。清水港は、海上物流の営業権を独占していた廻船問屋を中心に繁栄していた。
清水次郎長は、文政3年(1820)に、この美濃輪町に薪や炭を扱う「薪三」の高木三右衛門(正しくは三寿郎)の次男、『長五郎』として生まれた。この高木三右衛門であるが、空を眺めずに無鉄砲に航海するため、『雲見ずの三右衛門』と呼ばれた。
『長五郎』は文政7年の5歳の時に、三右衛門の妻の弟の甲田屋という米屋を営む山本次郎八の養子となり「次郎八のせがれの長五郎」ということで『次郎長』と呼ばれた。
2.悪ガキ
次郎長の悪ガキぶりは有名で、やむをえず親戚に預けられ、ようやく天保5年(1834)に甲田屋に戻って来た。
甲田屋に戻ってきてからの次郎長は人が変わったように家業に精を出していたが、ある時、甲田屋の金をちょろまかし、その資金を元に米相場で大儲けし、清水に凱旋帰国したことは有名である。その後、次郎長は家業に精を出すが、天保8年(1837)に養父治郎八が急死してしまった。養母さだは、甲田屋の財産を使い果たして男と駆け落ちしてしまった。この頃、次郎長は『きわ』という名の女性と最初の結婚をした。
写真は、広重の描いた清水湊(港:巴川河口)
天保10年(1839)次郎長20歳の時に、旅の僧に『お前の寿命は25歳まで』と占われ、天保12年(1841)に4人組の強盗に忍び込まれた。次郎長は、4人を懲らしめるつもりが逆に深手を負ってしまった。その後、次郎長は旅の僧の予言を信じるようになり、博打、酒、相撲に明け暮れるようになったのである。なお、この当時の清水港は賭博が盛んな場所であった。
写真は、大正時代の巴川河口。
左手遠方に今はない梅陰寺の幽霊松が写っている。
3.旅立ち
天保13年(1840)の頃は、清水の廻船問屋は営業特権を失いどん底の状況だった。この天保13年(1840)の6月、次郎長は府中の金八と一緒に賭場へ行った。そこで、府中の金八はいかさま賭博に気づき大喧嘩になった。次郎長と金八は、佐平と小富を巴川に叩き込み、「殺してしまった」と思い込んでしまった。
次郎長は、甲田屋の身代を実姉のとりと亭主の安五郎夫婦に譲り渡し、姉弟の縁を切り女房のきわとも離縁してしまった。次郎長は、江尻の熊五郎(後の大熊:おちょうの兄)、庵原の広吉と三人で江尻の宿から旅立って行ったのであります。
4.民衆文化のヒーロー
次郎長が有名になったのは、講談も浪曲も映画もつくられる前の時代であります。
次郎長は明治維新以降の存在感は大きいもの、有名になったのはやはり次郎長の前半生の幕末動乱期であります。
写真は、次郎長像の前に立つ廣澤寅蔵(昭和17年1月17日)
浪曲・虎造節は、昭和10年代のラジオ電波で全国を席捲。