(清水歴史探訪より)
この路線の初めての乗客は、意外な人物でした。
(清水歴史探訪より)
「公式には、昭和6年4月1日というのが第一便なんですけれども、3月29日に試験飛行が行われました。
当時ですね、飛行機関係を管轄していた所管が、逓信省の航空局というところで、小泉純一郎元総理のおじいさんが大臣をやってらしたんですね。
そこでご本人とお嬢様、小泉純一郎元総理からするとお母さん、この二人がゲストとして呼ばれました。それから、『エア・ガール』の本山英子(もとやまえいこ)さんという、最初に採用が決まった方なんですけれども、あと大臣秘書官の方と新聞記者の方がもう1名おられました。
ですので、乗客として乗られたのは全部で4人に、『エア・ガール』が1人と、あとはパイロットが乗っているという感じで、試験飛行が行われるんです。
なので、小泉純一郎さんのおじいさんとお母さんが一番最初に『エア・ガール』のサービスを受ける、という風なことになっていますね。」
小泉 又次郎(こいずみ またじろう)
慶応元年(1865) ~昭和26年(1951)
横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長などを歴任。入れ墨があったことから「入れ墨の又さん」といわれた。
とび職人の父・由兵衛、母・徳の次男として生まれた。兄が急死したため、とび職人になることを決意、全身に入れ墨を彫った。明治20年(1887)、立憲改進党に入党。明治22年(1889)、東京横浜毎日新聞の記者になり、30歳のころに芸者だった綾部ナオと結婚。
明治40年(1907)横須賀市議会議員に当選、明治41年(1908)衆議院議員選挙に立候補して初当選してから連続当選12回、通算38年間の代議士生活を過ごす。昭和4年(1929)から浜口内閣と第2次若槻内閣で逓信大臣をつとめ「いれずみ大臣」の異名をとる。
小泉 芳江(こいずみ よしえ)
明治40年(1907)~- 平成13年(2001)
小泉又次郎(元逓信大臣)の娘、小泉純也(元防衛庁長官)の妻、小泉純一郎(元首相)の母
小泉又次郎は正妻ナオとの間に子どもがなかったので、石川ハツが芳江を産んだ。芳江は、昭和4年(1929)日本女子大学の家政学科を卒業し、父又次郎が幹事長をつとめる立憲民政党の事務職員だった鮫島純也(鹿児島県出身)と知り合い、東京・青山の同潤会アパートで同棲をはじめた。駆け落ち後、許されて又次郎のもとへ戻った芳江と純也は三女二男をもうけた。
写真は、昭和6年父又次郎と試験飛行で、清水に来た時のもの。隣は、又次郎。
小泉 純也(こいずみ じゅんや)
明治37年(1904)~- 昭和44年(1969)
元衆議院議員。元防衛庁長官。旧姓鮫島(さめじま)
鹿児島県の漁業鮫島家に生まれた。父が純也11歳の時に亡くなり、母親が三男六女を育てた。家が貧しく、鹿児島実業の夜学に通いながら、市内にある呉服店山形屋(現百貨店)に勤務。
代議士岩切重雄の書生となり、日本大学法学部政治学科の夜学に通学、卒業後、立憲民政党の職員となる。妻芳江と知り合った頃は、又次郎が幹事長をつとめる立憲民政党の事務職員だった。
二人は駆け落ちして東京・青山の同潤会アパートで同棲をはじめた結局、又次郎のほうが折れて純也が“代議士になれたら一緒になることを許す”として認めることになった。
写真は小泉純也と、後に首相となる息子純一郎
小泉 進次郎(こいずみ しんじろう)
昭和56年(1981)~
日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(3期)
内閣府大臣政務官兼復興大臣政務官、自民党青年局長などを歴任。
父は第87・88・89代内閣総理大臣の小泉純一郎、兄は俳優・タレントの小泉孝太郎。
~人気がありすぎ、今後が期待される。~
日本初の『エア・ガール』、東京‐清水の航空路線ですが、その後は乱気流に揉まれてしまったようです。
「実はですね、毎日飛んでいたわけではなくてですね、月・水・金、週3日間だけ、それも1往復だけ飛んでいたんです。
料金は、東京‐清水間の片道が一応25円。当時の25円というのは、これがまた今に換算すると、どうだという話なんですけれども、単純にこれを『万』を付けて25万円程度でしょうかね?
この金額、片道ですからね。『エア・ガール』が乗っているからといっても、高いですねぇ。たぶん経営も厳しかったと思うんですね。
(清水歴史探訪より)
『エア・ガール』のほうはですねぇ、飛んでいる最中にちょっと色んなトラブルというのがありまして、恐い思いをしたそうです。また、けっこう誹謗中傷されたりしたこともあったらしいんですよ。
さらに、実際に支払われた給料が16円から17円だったそうで、当時の教員の給料が50円の時代ですから、かなりの薄給だったと思います。
それで、1ヶ月ぐらいしてですね、彼女たちもいろいろ思うところあったんでしょうけれども、給料もらった時点で3人とも辞めてしまうんですね。
なので、『エア・ガール』の第1期の人たちは1ヶ月で降りてしまうんですね、飛行機を。
(清水歴史探訪より)
「先進的なことが、この清水で行われていたわけなんですね。」
「そうですね。ですから、今、清水の人は東京行くのに新幹線か車ですよね。でも、その当時飛行機でしかも水上飛行機で東京へ行くなんてこと、今から考えても想像つかないんじゃないですか。
だけど、僕も『東京・清水間の定期航空便とエア・ガール』について、調べ始めて思ったんですけれども、あまりにも清水自体に記録が残っていないんですね。
もしかしたら『乗ったことがある方がいるかなぁ。』ということで探ってはいるんですけれども、当時利用された方が少なかったせいか、いらっしゃらないようです。残念ながら、めぐり会えておりません。
ぜひとも、なにか残っていないか、僕も調べてはいるんですけれどねぇ。それから、清水の歴史の1ページとして、何かの形で残していけるといいかなと思っております。」
清水を午後1時に離水した飛行機は、15分後沼津千本松原に着水します。この時、何も知らされていない沿岸の人々は、事故を起こして不時着したものと勘違いし、老若男女が駆け付けたそうです。当時、付近に居住していた森岡陸軍大将の令息も駆け付け、一行の上陸を助けていると、ふいに逓信大臣が現れたので、急いで父を呼びに行き、急な面会となりました。事故と思っていた森岡大将は「とんだ事でしたなあ」と告げると、小泉大臣「いろいろの御尽力、恐縮に存じます」ただ、故障でもないとわかって2人とも「わっは・・・」令嬢も笑顔で「本当に恐縮だったわ。しかも平和な村人に、とんだショックを与えて気の毒でしたわねー」集まった人々も新聞で知っていたモダン天女のエアガールと大臣令嬢が不意に空から降りて来たので大喜びだったようです。