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3.『エア・ガール』について

(清水歴史探訪より)

 清水と東京を結んだ旅客機では、今では当たり前のサービスが、日本で初めて登場しました。

 

「当時としては、金額もすごく高いものですし、あまり普及するようには思えなかったので、当時はそこの『航空輸送社』の社長の相羽(あいば)さんという方がいらしたんですけれども、『目玉商品を何か考えましょう』ということになりました。

^^デ・ハビランドDH.34
客室乗務員の歴史 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 1919年から始まった航空機の客室内サービスは、副操縦士が行っていた。1922年4月、デイムラー・エアハイヤー(現・ブリティッシュ・エアウェイズ)がデ・ハビランドDH.34に「キャビン・ボーイズ」と呼ばれた少年3人を乗せたのが世界初の客室乗務員とされる。
(清水歴史探訪より)
 その1年前の1930年(昭和5年)にアメリカのボーイング航空というところで、女性の客室乗務員、フライトアテンダントの方を初めて乗せるんですね。それまでは男性の方が乗っていたことはあったんですけれども、それをどうも耳にしたらしいんです。
客室乗務員の歴史 その2
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
 1930年には、アメリカ合衆国のボーイング・エア・トランスポート社(現在のユナイテッド航空)が、女性の元看護師を客室乗務員として乗務させた。これは、当時まだ「危険な乗り物」というイメージがついていた飛行機に女性の乗務員を搭乗させることで「女性も乗れるような安全な乗り物である」と乗客にアピールするという意味もあったといわれている。

 (清水歴史探訪より)

 日本ではまだそういうサービスをしていなかったものですから、『じゃあそれをちょっと目玉にして、フライトの計画を立てまして、じゃあそれ用に機体を』、ということで今までの23人乗りじゃしょうがないので、大きいものも用意して飛び始めるんですね。」

「飛行機自体が56人乗りということですから、お客さん何人、そしてそのフライトアテンダント、当時はそういう言い方したのかどうか分かりませんけれども、何人ぐらいだったんでしょう。」

愛知AB-1
 愛知AB-1輸送機(エンジンは愛知ローレン水冷式W型12気筒450馬力を装備)は,1929年に日本航空輸送がフォッカー機が到着する前に短期間使用された.その後は東京航空輸送社(相羽有が経営)が開設した羽田~下田間の定期航空路線に水上機として使用された.

 

中島フォッカー・スーパーユニバーサル旅客機

 中島飛行機はフォッカー社製スーパーユニバーサル輸送機をライセンス生産しました。昭和6年に民間航空路に就役、日本の民間航空路の黎明期に活躍致しました。 写真は、中島フォッカー・スーパーユニバーサル旅客機 水上機型 です。特徴あるエンジンと、その下に排気管が二本のびているのが写っています 。

(清水歴史探訪より)
「そうですね。アテンダントさんなんですけれども、当時3人採用しました。当時の飛行機は、想像していただくのが一番簡単なのは、自動車ですね。普通の自動車で2階建ての構造になっているのですが、パイロットさんが上の席に2人乗りまして、下のところに2人掛けの席が2つ用意されて、4人乗りという形なんですよ。重量の制限だと思うんですけれども、一応5人までという形をとっておりまた。
 その中に当時アテンダントをする人間を『エア・ガール』と呼んだんですけれども、『エア・ガール』さんを1人乗せまして、3人ないしは4人のお客さんにサービスをするという風な、そういうスタイルを取り入れて始めるんですけれども。」

 (清水歴史探訪より)

「今の旅客機ですと、ワゴンを押しながらサービスするんですけれども、当時の機内というのはどんな感じだったんでしょう。」

 

「当時の記録とかを見ますと、とにかくエンジンのすぐ前に座る形になってしまうものですから、飛ぶ前はお話をできるんですけれど、上がってしまうと、もうその爆音で会話が全然出来なかったらしいんですよ。

 なので、お客さんと筆談したらしいんですよ。メモを取ってメモを渡しつつ、メモが入ってきてというみたいな(笑い)。どうもそういうスタイルでないと、ほとんど会話ができなかったようなんですね。

 実際、中でどういうサービスをしたかというと、案内とかっていうのもそうなんですけれども、バスケットをですね、機内に持ち込みまして、その中で紅茶とかですね、ウイスキーとかサンドイッチとか、あとお茶菓子程度ですね、持ち込んでそのまま手渡しでサービスするという形でした。今とはだいぶ違う形ですね。本当にピクニックに行って渡しているみたいな(笑い)。そういうふうな感じだと思っていただければと思うんですけれども。」

「はい。それでも当時としては画期的なものだったわけですね。」

キーマエアのダグラスDC-2と客室乗務員(1938年)
昭和12年(1937年)頃の客室乗務員
1950年代の日本航空の客室乗務員

(清水歴史探訪より)

「そうですね。実はこの『エア・ガール』という名前も、社長の相羽さんていう方が考えたんです。

 世界的にもですね、その1年前から始まっているボーイング航空のサービスもですね、看護婦の資格があることというのが基準になっているんですよ。なので、機内で調子の悪くなった方とかっていう風なのも面倒も見てくださいね、ということが採用基準になっている。

 『東京航空運送社』の『エア・ガール』というのはですね、機内でお客様にサービスもする、おもてなしですね、そういうものも重視していました。また、容姿が端麗であることという基準はあるんですけれども、世界的に見ても、恐らくそういう風なのを重視して乗せた乗務員というのはかなり早い。もしかすると、世界で初めてなのかもしれないぐらい貴重なんですね。

 ですから、当然ですけれども、日本では初めてのサービスが東京と清水を結んでいる飛行機で行われたという話なんです。」

 
ちょと気になる最近の客室乗務員さんを載せてみました。
アエロフロート・ロシア航空(ロシア)
エア・バルティック
(ラトビア)
ポーター・エアラインズ
(カナダ)
ウィズエアー
(ハンガリー)

(清水歴史探訪より)

「それで、その3人採用されたという『エア・ガール』なんですけれども、採用試験の人気は高かったんでしょうか。」

「そうですね。当日ですね、141名の方が会場に集まりまして、来た方もいろいろな職業の方がいらっしゃって、芸者さんであるとか、学生さんであるとか、今でいうOLさんであるとか。いろんな多種多様な方が集まったようなんです。」

「皆さん、不安みたいなものはなかったんでしょうか。」

「『ウエイトレス・ガール』とかですね、『エレベーター・ガール』さん、という職業はもう普及している時代だったもんですから、女性がそういう風な職業に憧れるということはやっぱり多かったようです。当時の飛行機なんで、危険も当然伴う話ではあったんですけれども、やはりそういうことよりも、今までにない職業なので、そういうことに対する憧れのほうがたぶん強かったと思うんですよね。」

「当時のことですから、そんな男性でも勇気がいるようなことに女性が・・・ということはなかったんでしょうか。」

「採用する側の意図としては、やはり『女性が乗ってもこんな安全だよ、恐くないよ』、という風な、やはりそういうところを売りにしたい、証明したい、というような航空業界、この会社にしてもそうですけれども、そういうところが強い思いがあって女性がということだったと思うんですよね。」

~~~ガールについて
 
 震災翌年の大正13年(1924)に初めてモダンガール(近代女性)という言葉が雑誌の見出しに登場します。やがて、モダンガールは職業婦人を指す言葉となり、昭和6年頃には、バスガールをはじめ、エレベーターガールからマリンガール、ガソリンガールとあらゆるところで、『~~ガール』が使われるようになりました。
 戦後になるとサラリーガールという言葉が使われ始め、やがて昭和30年代にはビジネスガールと言う言葉が良く使われました。ビジネスガールを略してBGとか呼んで、私の子供の頃はBG1年生とか週刊誌に出ておりました。このビジネスガールは欧米ではエッチな職業ガールのことだそうで、真剣な顔をして『アイ、アム、ビジネスガール』なんて言うと、真剣な顔をして『ハウ、マッチ?』なんて聞かれたりしたそうです。
 そんなことで、東京オリンピックの2年前からビジネスガールは放送禁止用語になり、オフィスレディと言う言葉が使われるようになりました。また、エレベーターガールやバスガールは、しだいにその職業自体がなくなり、今では『~~~ガール』なんて呼び名は懐かしいものになりました。
モダンガール
モダンガール
モダンガール
モダンガール
エレベーターガール
バスガール
ガソリンガール
マリンガール
今では、マリンガールと言うと水槽の中を掃除したりイルカと戯れたりするようですが、昭和の初めのマリンガールは観光案内が中心だったようです。
サラリ-ガールを演じる星由里子
ビジネスガールの化粧法や身だしなみの説明です。
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税理士法人森田いそべ会計
〒424-0816
静岡市清水区真砂町4-23
TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
税理士
社員 磯部和明
公認会計士・税理士

1.各種税務相談・税務申告
2.記帳業務
 3.給与計算・決算指導

■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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