「こちらが居間。ここが次の間になっています。西園寺公望の生活空間というか、普段くつろぐ部屋がこちらの居間になっています。実はですね、大正8年に初めて坐漁荘ができて、西園寺公望が70歳の時に、この坐漁荘で生活を始めたんですが、奥さんとか、あるいは子供さんだとか、お孫さんだとかもいらっしゃることはいらっしゃるのですが、彼らは東京なり、湘南に生活をさせて、もっぱらこの坐漁荘は政治活動の場でした。昭和15年ですね、この次の間、この部屋です。この部屋で91歳の大往生を遂げました。」
「こちらを訪れたお客さんは、どちらへ通される形だったんですか。」
「隣の洋間ですとか、あるいは二階の和室にご案内して、そこで接待をしましたね。」
「はい。そちらのほうへ・・・」
(清水歴史探訪より)
「大きな理由としては、自然環境の豊かなところ。それから、別荘なども多くありまして、井上馨ですとか、あるいは松方正義(まつかたまさよし)ですとか、そういう先輩格の元老もいらっしゃいました。そのような感じで馴染みがあったということも、ここに居を構える1つの理由ではないかと思います。
『なぜ、ここを坐漁荘と(名前を)付けたのですか』とよく質問されるんですけども、西園寺公望がこういう風景を見ながら、『何かいい名前を付けてもらえないか』という風にして頼んだそうです。
そうしましたら、渡邊千冬(ちふゆ)子爵がですね、『じゃあ、そこの岸辺に坐して、坐って魚釣りでもして余生を送ったらどうだろう』ということで、『坐して魚釣りをして楽しむ別荘』ということで、『坐漁荘』と命名しました。
しかし、その時時の世相はですね、そんなにのんびりと魚を釣る余生を送るような時代ではなくて、非常に軍国主義に進む世相で、西園寺公望公は非常に苦慮されたのではないでしょうか。」
渡辺千冬 (わたなべ-ちふゆ)
1876-1940 明治-昭和時代前期の実業家,政治家。
明治9年5月1日生まれ。渡辺千秋の3男。叔父渡辺国武の養子。日本製鋼所,北海道炭礦(たんこう)汽船,日仏銀行の取締役を歴任。明治41年衆議院議員,大正9年貴族院議員となる。浜口内閣,第2次若槻(わかつき)内閣の法相をつとめる。昭和14年枢密顧問官。昭和15年4月18日死去。65歳。長野県出身。東京帝大卒。
西園寺公望の別荘「坐漁荘」の命名者でもある。大公望が渭江の岸に坐って釣をした故事にならっての命名という。
文王は猟に出る前に占いをしたところ、獣ではなく人材を得ると出た。狩猟に出ると、落魄(らくばく)して渭水(いすい)で釣りをしていた呂尚(りょしょう)に出会った。二人は語り合い、文王は「吾が太公(注:太公とは、文王の祖父の古公亶父(ここうたんぽ)の別称。)が待ち望んでいた人物である」と喜んだ。そして呂尚は文王に軍師として迎えられ、太公望と号した。陝西省宝鶏には太公望が釣りをしたという釣魚台があり、観光地となっている。