(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~ 清水歴史探訪~~ 清水歴史探訪~~
毎月第二土曜日のこの時間は清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
(清水歴史探訪より)
清水区興津。清見寺(せいけんじ)の門前を抜ける旧国道1号線沿いに、ひときわ重厚な板塀に囲まれた建物があります。最後の元老として知られた、西園寺公望公の終の住みかとなった坐漁荘(ざぎょそう)を訪ねました。
(清水歴史探訪より)
「観光ボランティアガイドの伊吹重雄さんに、ご案内いただきたいと思います。宜しくお願いいたします。」
「おはようございます。ようこそ、坐漁荘においでいただきまして、ありがとうございます。こちらが玄関です。実はですね、この玄関はですね、それこそ1年に数人しかここから玄関に入れないというものなんですね。西園寺公望から招待を受けたお客さんですとか、あるいは皇室の方々ですとか、そういう方が入るお客さんでしたね。西園寺公望にとっては上客ということで、皆さんにここから玄関に上がっていただいて、西園寺公望を忍んでいただいて、坐漁荘を見学していただければ嬉しいかなと思います。」
「今私たちがいるのが、ちょうど4畳半ぐらいのお部屋でしょうか。畳敷きのお部屋にいるわけなんですけれども、ここまでが玄関になるわけなんですね。」
「そうですね。茶室風の造りになっておりますけど、こちらで待っていただいて、準備が出来次第中にご案内する。そのような形をとっています。」
「天井も、これ、竹と何でしょう。細い板で編んでありますね。」
「そうですね。西園寺公望はやはり竹を非常に好んだ人でして、建物全体に竹を多く利用されています。例えばこの襖なんかを見ていただくとですね、竹を漉き(すき)込んであるんですね。」
(清水歴史探訪より)
「西園寺公というのは、実際にはどんな方だったんでしょう。」
「1849年、嘉永2年の生まれです。京都の公家さん、旧華族のうちの1つ、徳大寺家の次男として生まれています。2歳のときに、西園寺家の方に養子として出られています。
青年時代には、官費(かんぴ)留学生としてフランスに留学しています。日本に帰ってきて、当時の首相でありました伊藤博文に政治活動の指導を受けました。」
そして明治39年、57歳のときに第一次西園寺内閣、明治44年62歳の時に第二次西園寺内閣、二度内閣総理大臣を経験しています。
(清水歴史探訪より)
そのあと政界を引退するんですが、元老職に就いて、側面から時々の天皇の政治的な顧問、諮問機関というような形で国を支える重要なポジションに就いています。この元老が決めた人選を天皇陛下に進言して、天皇からその指名された人が総理大臣になる、そういうシステムが一般的に行われていたようです。
(清水歴史探訪より)
時々、『興津詣で』とか『西園寺詣で』という言葉を聞きますけれども、それはまさにそういう重要なポジンションにあるがゆえの言葉ではないかと思っています。
坐漁荘と西園寺公望の略史
嘉永2年(1849)公家徳大寺公純の次男として誕生
慶応3年(1867)18歳で参与職となる
明治元年(1868)19歳で山陰道鎮撫総督・新潟府知事となる
明治2年(1869)20歳の時、開成所に在学・家塾立命館を開く
明治4年(1871)22歳でパリ留学
明治8年(1875)27歳、ソルボンヌ大学に入学
明治10年(1877) 西南戦争
明治13年(1880)31歳、横浜へ帰港。
明治15年(1882)33歳、伊藤博文(憲法調査)随行として横浜出港
明治22年(1889) 興津駅開業
明治24年(1890)42歳、帰国
明治26年(1893)44歳、貴族院副議長
明治27年(1894) 日清戦争
明治33年(1900)51歳、枢密院議長
明治37年(1904) 日露戦争
明治39年(1906)57歳、第一次内閣総理大臣
明治43年(1910) 日韓併合
明治44年(1911)62歳、第二次内閣総理大臣
大正5年(1916)67歳、元老となる
大正8年(1919)70歳、12月 興津坐漁荘に移り住む
大正12年(1923)74歳 関東大震災
この冬より 冬は 興津 秋・春は 清風荘 夏は御殿場にて暮らす
昭和4年(1929)80歳、座漁荘、洋間を増・改築
昭和6年(1931) 満州事変
昭和11年(1936) 2.26事件
昭和15年(1940)91歳、1月より病臥
11月24日興津坐漁荘にて逝去
昭和16年(1941) 12.8 太平洋戦争始まる