「坐漁荘」とは
坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)、風光明媚な清見潟に臨む興津清見寺町に老後の静養の家として建てられた別荘です。
設計は住友本社の建築技師・則松幸十が行い、京都から大工を呼び寄せ建てられました。
坐漁荘の名は、子爵渡辺千冬の命名で、周の文王が呂尚(太公望)が坐漁する場に会い、礼厚く迎え軍師としたという中国の故事に因ります。
居間からは、遠くにかすむ伊豆天城の連峰、目前には三保の松原が見渡せ、砂浜の漁船や干し網の近景が庭越しに広がっていました。
しかし、実際の坐漁荘は「興津詣で」と称されたとおり、訪れる政府要人が後を絶ちませんでした。
西園寺公の死と、その後の坐漁荘
西園寺公は、昭和15年11月24日に坐漁荘で死去しました。12月5日、国葬が執り行われ、その後、世田谷の西園寺家墓地に葬られました。
『その後の坐漁荘は、高松宮殿下に献上されたが、終戦後徳川家を通じて西園寺公一(公の孫)に戻されました。公一氏は、事情があって豪州のバイヤーに売却しましたが、この話を聞いたイギリス大使館の参事官レッドマン氏が買い上げ、昭和26年、財団法人西園寺記念協会の設立となりました。~』
(増田荘平「坐漁荘秘録」より)
『昭和43年~坐漁荘の建物は傷みが激しくなりました。同年11月、明治村への移転の話がまとまり~跡地は公園にして記念碑を立て、地元が記念館を建設するときは相談にのることが合意されました。翌44年10月、家具や調度品が運び出された後、建物を測量、記号をつけて解体し、45年6月、明治村3号地に移転復元されたのです。』
(清水市史第3巻より)
西園寺の興津か、興津の西園寺かと言われた時代はもう去った。いまは朽ちようとしている坐魚荘が、寂しく昔の名残をとどめているのである。井上馨は下級武士から出世した関係で庶民ともつきあいがあったが、それに引き替え西園寺公望公は、高位高官、いわゆる公卿の出身であるので、町民との接触はあまりなかった。
西園寺公は、大正五年十二月に初め水口屋に宿り、その時この地が気に入り、再び七年に来興、八年にベルサイユ会議に出席、その際に清見寺下に敷き地も決まって帰ってきた時には、新築落成されて、ここに永住することになった。全権大使の大任を果たしてほっとしたという手紙が絹地に書かれたものを父がもっていたが、どうして取りいったのか疑問である。ビワのお礼のことばがはいっているところを見ると、由比の本家からそのころ珍しいといわれたビワをもらい受け、興津駅に出ていた関係で、うまく取りいったのではなかろうかと思われる。三十歳そこそこの駅手であった。
公の興津の生活は簡素で書画、盆栽、読書といった日々を送られていた。坐魚荘は裕目の名に反して全く小規模のものであった。しかし、数奇はこらされている。私たち少年時代よく駅で遊んでいた時にみた老公は、温雅そのものと言った感じで、数名の女中さんにとり囲まれ、長いツエをつきながらニ、三の警官に守られ、自動車の人となったのをたびたび見ている。
ときに元気なときは、海岸を散歩して町民や子供に声をかけたりして喜ばせていた。いまはその幼児も成人して公をしのんでいる。平和の悠々とした生活も五・一五事件、血盟団の陰謀、二・二六事件などで、警戒も厳重になり、散歩は極力ひかえさせられ、表裏ともに憲兵、警察官などで公の自由はなくなってきていた。
老公が興津にいる間に、内閣首班を天王に泰請して成立を見た内閣は、加藤友三郎、山本権兵衛、清浦奎吾、加藤高明、若槻礼次郎、田中義一、浜口、雄幸、犬養毅、岡田啓介、広田弘毅、近衛文麿、平沼騏一郎(きいちろう)、河部信行、米内光政などで国の内外の事件があるごとに興津はざわめき、坐魚荘の門はひっきりなしに重臣のゆききがあった。
私の同級生ですでに戦死された杉山保君の父、杉山保太郎氏は、大正十一年から昭和二年まで五カ年の警備の任に当たっていた。瑞雲院東側に住宅をもってよく遊びに出かけたものであり、公の秘書熊谷八十三氏の二男五郎君も同級生で、可愛がられ、西園寺公から頂いた菓子もわけてもらったものである。清見寺には吉川大航士がいて(いま妙心寺派 長、九十七歳)坐魚荘に出入し、そのころは元気でよくしかられたもので、やはり清見寺に同級生がいて清陀篤君、塚本君、佐々木孝順君などで、ほのかに公のうわさを聞いたものであった。
昭和十五年、いわゆる紀元二千六百年のころ、興津小学校は全体体操として二千人もの生徒が、建国体操を取りあげ、坐魚荘の下の海岸で「エイッヤーッ」と勇ましくやったものである。(松本学氏の創唱、大谷武一氏の作、当時の校長は久佐門宇氏)公はすでに九十二歳、病気も加わっており、町民こぞって全快を祈ったが、十一月二十四日に静かに大往生をとげた。私たちは児童をつれて、二十八日には霊柩を見送ったし、十二月中旬には学校に贈られたたくさんの書籍を車で取に行ったものであった。いまその一部が興津公民館に保存されているが、戦後に多くは散逸してしまった。
公の書を父は二幅置いているが、書は人なりというか、温厚ないかにものんびりした書で、風景漢詩となっている。その後坐漁礁としての思い出は、戦後二十二年ごろに徳川慶光がここに居住し、私たちは文化面体を組織、ざっそく大ぜいで面会を申し出で、民主主義の諸問題を話しあったりしたこともあった。
やがて慶光は西奈の瀬名に移って行ったし、私が県にはいって登呂の仕事を手伝った時、発墳講演会の会長として慶光が会長を引き受けられたことも、何かの偶然であった。誠に気軽な方であった。
文・池田正司(日展水彩作家協会会員)
興津というところ
昭和48年(1973)発行のおきつ小学校創立100周年記念誌から引用され文章を頂きました。
興津を語るとき忘れてならない名が3つある。薩埵峠、清見寺、清見潟で、いずれも古くから絵や歌に紹介されてなじみ深い。
興津の町は、明治22年4月、興津宿、中宿町、清見寺町、洞村、薩埵村、承元寺村、谷津、横山村、八木間村の1宿8か町村を合併して町制をしき、さらに昭和36年6月29日、清水市と合併して現在に至る。東西約4㌔㍍、南北6.1㌔㍍、海岸線4.4㌔㍍、総面積12.41平方㌔㍍で、もともと気候温暖にして風光の美しさを誇る。また、「庵原の清見が崎の三保の浦のゆたけきみつつもの思ひもなし」(万葉集巻二・田口益人)と歌われているように、発祥の歴史も古い。くだって文政3年(1820)のころは、興津宿の中央に本陣、脇本陣それぞれ2軒が並び、旅篭屋が39軒もあって宿駅は大いに栄えたという。
興津の東はずれにそびえる薩埵峠は、宇都谷峠、小夜の中山などと同じように街道有数の難所であったが、同時に景勝の地として知られる。広重の絵になる「東海道五十三次薩埵の図」のほか、黙阿弥の「三保の浦松月横櫛―斬られるお富―」をはじめとする劇や物語にしばしば登場する。
興津川を渡ると北に分かれる甲州街道がある。これより身延へ13里―。往時は身延山への参詣道として、上方からの信者なら一度は通らなければならない道であった。
古い歴史を誇る清見寺は、1,200年前にその発端をさかのぼる。西暦670年代、白鳳のころ、天武天皇が諸国に“関”を設けたが、大和の国・立田山、丹羽の国・大江山とともに「清見が関」がおかれた。寺記によれば、この関舎を保護するために寺を建て、中国の僧・敬叓上人をその主としたのが始まりとある。その後、足利尊氏をはじめ多くの権力者の加護を受けて、寺門は繁栄していった。
この清見寺を中心に、東西4㌔㍍ほどが清見潟と呼ばれ、風光明媚な海岸であった。三保とはるか伊豆半島を前景に富士の雄姿を仰ぐ一帯の図は、上は国宝級のものから下は広告の団扇まで千差万別。絶景である。
近代の興津は著名人との接触が多く、ゆかりの建物や逸話が今に残る。明治29年にときの元老、井上馨候が別荘「長者荘」に悠々自適するようになって、日本の政財界の要人が往来し脚光を浴びるようになった。大正8年には西園寺公望公が西はずれに「坐漁荘」を建築して居を構え、公健在中は世にいう“西園寺詣”で賑う。ほかに元老、松方正義公が「川崎男別荘」に、伊藤博邦、博精公2代が興津駅近くの「独楽荘」に、それぞれ自適の毎日を送っている。
興津の名を広く天下に宣伝したのは、なんといっても明治の文豪・高山樗牛の名文「清見寺の鐘声」であろう。「夜半のねざめに鐘の音ひびきぬ。おもえばわれは清見寺の…」という文章は、ある意味で明治時代を代表するものといわれる。樗牛はこのほか「清見潟日記」をものしているが、興津の名は島崎藤村の「桜の実の熟する時」、与謝野晶子の数首の歌に登場するなど、文学とのふれあいも枚挙にいとまがない。
変わったところでは、ワシントン・ポトマック公園の桜―。農林省興津園芸試験場で苗木の病虫害対策が講じられ仕立てられたこと、ふるさとを見直す話題もこと欠かない。
歴史と伝統にはぐくまれた興津の町も、国道1号線の混雑に加えて興津ふ頭の築造、東名高速道路の開通、さらに国道バイパスの建設に及んでその容相を一変しつつある。