(清水歴史探訪より)
「ちょうど今、隣りの建物はコンクリートの屋根になってしまっていますけれども、このあたりをずーっと道が通っていたわけですね。」
「そうですね。御穂神社への参内の道があって、それがまーっすぐ来てその100メートル先が、この東の端ですね。『橋の端』、ですけれども(笑い)。」
「はい。向こうが芝生の広場になってますので。」
「向こうへ行ったほうがよく見える。」
「はい。」
(清水歴史探訪より)
「浄化センターの屋上は緑地公園として、一般に開放されています。」
「静清浄化センターの上の多目的広場の一番海側の端までやってきました。鉄道岸壁といわれるところですね。」
「鉄道岸壁のちょうど角になっているような。」
「角ですね。あそこを通って、今船・・・。」
「はい、造船所の方になりますね、向こう側が。」
「はい、金指(かなさし)造船所(現:株式会社カナサシ重工)ですね。クレーンの手前ですね。植木のところがそうです。植木の100メートル先が、羽衣木橋の東の端。」
「造船所のクレーンがたくさん見えているんですけれども、ここから見ますと、ちょうど左手に水色のクレーンがあって、右側にグリーンのまたクレーンがあるんですが、その間のあたりの植込みになっているようなところ。」
(清水歴史探訪より)
「そうですね、植込みが約10メートルあります。あれが、昔の道路。御穂神社へつながる、御穂神社と塚間の渡船場へ行く道がまっすぐ延びている。それで、100メートルまた海の中へ突き出したところに、羽衣木橋の東の先っぽがあるわけですね。」
「はい。今は岸壁のような形になってしまっていますけれども、さらに私たちのいる手前側のほうに陸地があったんですか。」
「そういうことですね。半島になっていたんですね。清水港が大正の初めごろ、拡張するということで、削っちゃったんですね。」
「逆にこの今鉄道岸壁になっている部分は今、陸ですけれども、海だったんですか。」
「海というか、河岸が入ったような浅瀬だったと思います。だから今の150号線ですか、あのあたりまではいわゆる河岸の浅い場所ですね、満潮になると潮が出てきちゃう。」
「私たちが今立っているこの静清浄化センターの中のこのあたりも、巴川の河口というか、海というか、そんな位置だったんでしょうね。」
(清水歴史探訪より)
「そうですね。ですから、ここから約500~800(メートル)は海で、ですから巴川の河口は昔は広かったよ、という話はそういうことからきています。」
「今はすっかり様変わりという感じなんですね。でも、ここから富士山がよく見えますね。」
「見えます。一番よく見えますね。」
「非常に景色もいい場所だったんですね。当時の写真がいくつか残っているようなんですけれども。これは、かなり多くの方が利用していたんでしょうね。」
「そうですね、ここは一応有料の木賃橋(注)。お金をとる橋で、農家の方が仕事で使っていたから、そう高くはないと思うんですけどね。今のお金で100円かそんなもんじゃないですかね。」
(注)安い宿のことを木賃宿と呼んでおりました。木賃とは、薪代のことです。
「はい。写真に写っているところを見ますと、何か傘をさしてのぼりを立てて行列みたいなものも撮っていますね。」
「これはね、たぶん御穂神社の大祭か、例祭の行列だと思います。これ神道の服装ですからね。」