2.日の出埠頭から羽衣木橋の跡地へ
(清水歴史探訪より)
清水歴史探訪~~ 清水歴史探訪~~ 清水歴史探訪~~
毎月第二土曜日のこの時間は清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
水上バス乗り場
御穂神社へ続く
塚間にある鳥居(清水歴史探訪より)
『塚間の渡し』は、水上バスに姿を変えて今でも現役ですが、橋は廃止されてから90年以上、その記憶も薄れてしまいました。この橋と当時の清水港周辺の様子を研究している、静岡市山岳連盟 常任理事の鷲山 久(わしやま ひさし)さんにお会いしました。
「鷲山 久さんと日の出埠頭から歩いて、羽衣橋の跡地のほうへ向かいたいと思います。鷲山さん、最初にこの羽衣橋のことを調べようと思ったのは、どういうところだったんですか。」
「ええとね、私が入社したときに先輩から、『昔、木橋があったよ。三保へ行く道があったよ』とそういう話を聞きました。ずっと頭の中にあったんですけど、宮沢賢治と北原白秋を調べていくうちに、どうも羽衣橋を渡って三保へ行ったということに興味を持ちましてね。
宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字:宮澤 賢治、明治29年(1896)ー 昭和8年(1933)
岩手県の花巻市に生まれた童話作家として有名な宮沢賢治の主な作品は、『注文の多い料理店』(1924年)、『雨ニモマケズ』(1931年)、『銀河鉄道の夜』(1933年)、『風の又三郎』(1934年)などです。
さて、賢治の家は、もともと浄土真宗でした。ところが、盛岡高等農林学校に進学してから、『法華経』の信仰が深まり、大正9年に『国柱会』に入会しました。賢治が26歳の時、最愛の妹トシが亡くなりましたが、賢治は宗派が違うということでトシの葬儀に参列しなかったそうです。そして、後日、分骨したトシの遺骨を持って三保の最勝閣を訪れ納骨したのであります。
当時あった『羽衣橋』を、賢治はトシの遺骨を抱いて、渡ったのでないでしょうか?そして、賢治は田中智学と何を語ったのでしょうか?
ところで、賢治は死ぬまで熱心な『日蓮教徒』であったかについたは、議論が分かれているようです。
ところで、賢治は死ぬまで熱心な『日蓮教徒』であったかについたは、議論が分かれているようです。
北原 白秋(きたはら はくしゅう、明治18年(1885)-昭和17年(1942)
北原白秋は、日本の詩人として有名で、清水では芸者遊びをしている時に『ちゃっきり節』を作詞したことで有名です。
さて、北原白秋は、白秋の学友が国柱会の田中智学の門下生だったり、白秋の夫人が田中智学の側近に仕えたりと、国柱会には縁が深かったようである。
そして、白秋には三保の最勝閣を詠じた、長歌並びに反歌がある。また短歌も残した。
(長歌)「風早の三保の浦廻、
--------(省略)-------、
高き薨のあやにすがしも」
(反歌)「この殿はうべもかしこししろたへの不二の高嶺をゆたかにぞ見る」
(短歌)「大船の心たのめて三保が崎君が御殿に参ゐ出来にけり
天そそる不二をまともに我が見るとこの高殿に参ゐのぼり見る」
それでたぶん橋の構造から、巴川の南側にあるんじゃないかなあと思っていたんですよ。一昨年ですね、偶然、静岡県の災害地図ですね、そこに大正4年の25000分の1かなぁ、橋が載っていたんですね、羽衣橋。それで、やっと所在が分かったんです。」
(清水歴史探訪より)
「時代としては、いつごろにこの羽衣橋はあったんですか。」
「明治43年(1910)ですね、日韓併合の年ですね。ハレー彗星が来てみんな世間が驚いているという、そんな時代にできたんです。それと同時に、最勝閣という、日蓮系さんの団体の本部が三保にできて、いわゆる三保の『竜宮城』といわれるものが貝島にできたと同時に橋もできたという感じですね。」
大井川の蓬莱橋
蓬萊橋(ほうらいばし)は、静岡県島田市の大井川に架けられた木造橋(歩行者と自転車の専用橋)。全長は897.422m(巾2.7m)。法律上は農道に分類され、島田市役所農林課の所掌である。