(清水歴史探訪より)
「天神様も祀られていらっしゃるのですか。」
「はい、学問の神様ということで、毎年1月と10月に天神祭(てんじんさい)といいってお祭りをしておりまして、子供さんたちの学業や試験の合格をお祈りをさせてもらっています。」
渡唐天神の由来--------------------(日蓮宗:中部宗務所の㏋より)
当山鎮護の天満大自在天神はもと飛地境内の天神山に奉祀されてあったが、大正初期に神域を他に譲渡したので、あらたに六十六世石井日章上人が寺域に天神堂を造営し奉斎したものであるが、この尊体は渡唐天神と称し、肩に鞄をかけた菅原道真公の木像である。海中出現と伝え気品高き名作であるが、作者は明らかでない。
(清水歴史探訪より)
「はい。そのほかにも色々書状ですとか、面ですとかあるようなんですが。」
「はい、一番はこの椿の御朱印の、これは写しなんですけども、本物は海長寺の裏の宝蔵庫に確保させていただいておりますけども、これがその書状の面になります。」
「慶長9年という風に書いてありますが。」
「はい。慶長7年にたぶん写しをしたということ。」
「なるほど。それで、本編のほうで表紙のほうには、これは天保・・・」
「天保9年ですね。8月寄進ということで。」
「その横は、大きな字で何て書いてあるんでしょうか。」
「御回廊朱印ですかね。」
「はい。厚みがあるようですけれども。」
「はい、たぶん中身がかなり厚い文面が書かれているという風に思われますけれども。」
「はい。じゃあなぜこの御朱印を与えたか、みたいなことがこの中には書かれているのですか。」
「そうですね、はい。たぶん徳川家康がここに逃げ込んできたということのその言われを書いて、そういうご恩により与えるという、先ほどご説明した通りのことが文面として残されているという風に思います。」
「はい。そのほか、注目すべきものはどんなものがありますでしょうか。」
「先ほどの『日海記』という文章が、ここは一部分しかちょっと開かせていただいていませんけども、その惨状をこれは本当に一部分で当時の、その明応のときの地震が凄まじいものであったということを書いております。ここにも宗門(しゅうもん)の資料としての『日海記』についてということで書いてあります。」
「はい。書かれた日海師という方は、当時23歳。」
「そうですね。」
「お若い方ですね。」
「お若いんですけども、ものすごく秀才であったという風に言われています。今ここの海長寺の住職、貫首になるには、だいたい60代後半から70代の方が往々としてあるもんですけども、23歳でこの海長寺の住職を任されるということは、凄まじい秀才であったという風に思われます。」
(清水歴史探訪より)
「はい。葵の御紋のような紋がついた、これは何でしょうか。入れ物がありますが。」
「はい、これは水戸光圀公からの書状という風に言われています。代々その徳川家とは縁が深いお寺でございますけれども、そういう水戸光圀公からもたぶん書状が来て、という風に思われます。」
「テレビでもおなじみのあの黄門様ですね。」
「黄門様ですね。」
「そうですね。この大きな入れ物にこれが入っていたわけなんですね。」
「そうですね。」
「徳川だけあって、立派なものに入ってきてるわけですね。」
「そうですね、やっぱり立派なものに包まれて、こうやって来ていますね。」
「そのほか、北条氏なんていうのもあるのですね。」
「そうですね、とにかく海長寺はそういう時の権力者から、とにかく信頼をされているお寺だという風に思われます。」