(清水歴史探訪より)
ところで、海長寺に逃げ込んだ家康公が隠れたという椿は、今どうなっているのでしょうか。
「すみません、その家康公の由来の椿にご案内をお願いできますでしょうか。」
「はい、分かりました。」
境内には、家康公から寄進されたという蘇鉄(ソテツ)も見事な姿を見せています。
「この蘇鉄も家康公からいただいたと言われている、樹齢がだいたい700年です。」
「はい。もうかなり大きなものになってますね。」
「そうですね。海長寺には大きな蘇鉄が4本あるんですけども、それぞれオスの木が2本、メスの木が2本。メスの木はやはり実がなって、それを植えるとちゃんと芽が出て。」
「さあ、そしてこちらの本堂になるんでしょうか。」
「そうですね。」
栄枯盛衰----------(日蓮宗:中部宗務所の㏋より)
徳川家の庇護を得て寺運も隆昌し、諸堂も整備して塔中も数坊を数えたが、賢妙院・円城坊・宝積坊は明治の初頭までに廃され、明治二十一年には鐘楼を再建、南向大門を廃して東向石門を建造した。池上法流四本山の一に列したのも明治の代であるが、その後は当山より幾たりかの貫首が池上本門寺へ栄進している。
大正十年三月 (彼岸の社日) に位牌堂より出火し、鐘楼と庫裡を残し焼失したが、満十年にして祖師堂・本堂・宝蔵・書院などを造築し、昭和六年の宗祖六百五十遠忌に諸堂落慶式を挙げることができた。時に六十一世中野日粲上人の代であったが、然るに昭和二十年七月、今次戦争の累禍を受け、鐘楼と宝蔵を除いて再び全山は灰燼に帰した。その後、本堂は石川日教上人の代、書院は伊藤日定上人の代、庫裡は山本日仙上人の代に復興し、梵鐘も新鋳され、更に、第六十八世三瓶日揚上人、宗祖七百遠忌記念事業として、本堂屋根替え銅板葺及び内陣荘厳、宝物館新築、造園、宗祖銅像、歴代墓碑の建立等を完逐したものである。
(清水歴史探訪より)
「大きな銅葺き(ぶき)の屋根ですけれども。」
「戦争の時すべて焼けてしまいましたので、戦後すぐに建てたお堂ですけれども、何とか当時の技術で、ここまでのお堂を建てさせていただくことができました。」
「屋根のところにそれぞれ葵の御紋がついているわけですね。」
「そうですね。やっぱり家康公のおかげでここまで大きくなった。という風に思いますので、たぶん時の貫首様がそういう風にされた、という風に思います。」
(清水歴史探訪より)
「これも家康公の由来の特別な御紋というわけですね。そして本堂に向かって左手側に椿の木が、かなり大きいですね。」
「そうですね、4代目ぐらいの椿なんですけども、その椿の群生に倣って今でも大切に保管をしております。」
「はい、高さが4、5メートルもありましょうか、かなり椿として大きな木かなと思うんですが。」
「そうですね、大きいと思います。1本だけですので、ちょっとあまり低くても恰好になりませんので、このようにしっかりとした椿のことに倣ってのことだと思って、しっかりしたものを植えさせていただきました。」
(清水歴史探訪より)
「はい。家康公は、例えばこの椿にどうやって隠れたのかな、と思うのですが。」
「そうですね、椿は当時は群生でしたので、何本かあったという風に言われてますけども、そこにも祠(ほこら)のようなものがあって、もう少し隠れやすかったんじゃないかという風に言われたりしています。それで、今福丹波守が追ってきても分からなかったという風に言われています。」
「はい、今はこう平らになってしまっていますので、墓地のちょっと横のところにあるんですけれども、あまり隠れるところが今ですとないですね。」
「そうですね、今でこそ4,000坪の中のここの位置ですけども、椿の群生がどの位置にあったのかというのは当時の資料じゃないと分かりませんので、何とも申し上げられませんけども、もう少し隠れやすかったんだという風に思います。」
「はい、椿の群生地があったということは、お寺も広かったわけですね。」
「そうですね、今は4,000坪ですけど、当時は10倍の40,000坪でしたので、かなり隠れるところもいっぱいあったかと思いますけども、その中でも椿の場所を選んだということは、それなりに隠れやすい場所だったのだという風に思います。」
「今もきれいな花が咲いていますけれども、今もこの元気な椿が見えるわけですね。」
「そうですね、家康公のことを想って見ていただければ、また格別な想いが浮かんでこられるんじゃないかと思います。」