当時、お茶の対米輸出は年間2万トンを越えており、日米通商条約によって関税の自主権を失い、貿易赤字が累増していた日本にとって、重要な輸出品であり、国内の茶需要も順調に伸びていた。
次郎長は開墾事業を引き受け、清水港近くに設置された囚人の改心所から開拓作業者を選び、富士山を背景とした素晴らしい景観の中で、矢来を撤去し、鎖を外して仕事に就かせた。現場監督は大政に任せた。彼が亡くなった明治13年以後は、明治の五大歌人の 一 人であり、当時次郎長の養子になっていた天田五郎が受け継いだ。
その頃、遠州牧野が原では、1000ヘクタールの大茶園が、幕臣や新撰組隊士によって開発され、成功を収めた。次郎長はこの茶園を見学して自信を付け、清水港を整備して、直接に対米輸出する計画を建てた。横浜の商社を通すと、かなりの手数料を抜かれるからだ。
伏谷如水は慧眼だった。次郎長はアウトロウの世界に生きてきたので、官軍・幕府軍の何れに対しても、義理も恨みも感じていないから、中立的な行動を取るに違いない。また、街道 一 の博徒の大親分なら、卓抜した政治力も備えているだろうと判断した。
裏の世界の成功者は、1、客のニーズをよく知り、2、官憲との対立を避け、3、ルール違反者に対してはタイミングを計って断固攻撃し、4、幅広い情報を集め、誰でも納得できる常識的な行動をとれる人だ。
維新の時には、徳川の幕臣が静岡藩に移転するため、家族を含めて 10万人近くが清水に上陸した。一 種の難民である。次郎長は直ちに、お寺・神社等の宿泊所を探し、混乱を収めた。
また咸臨丸事件では、清水港に故障で停泊中の咸臨丸が官軍に襲われ、港内に放り出された幕府の武士7名について、「幕府軍に味方する者は極刑」というお触れを無視して、次郎長は手厚く弔った。
当時の駿府には、西周、中村正直、渋沢栄一等海外経験がある超 一 流の幕臣知識人が集中しており、また徳川慶喜の蟄居所には新門辰五郎が一 時的に常駐し、次郎長の親友・山岡鉄舟が頻繁に訪れた。慶喜は駿府では写真、投網、自転車の趣味に生き、投網のお供は次郎長だった。次郎長は侠客時代に鍛えた情報吸収力、幅広い常識、交渉力、人間的魅力を発揮し、彼らの知識を借りて新事業に手を出した。富士山麓の開墾、清水港の開発、エネルギー革命を予想した相良油田の試掘、駿府藩の英語の達人を利用した英語塾等がその典型である。
(波止場浪漫より)
明治1(P67)
「異国じゃねえが、いきなり攻撃しやがった」
「なんだ、咸臨丸のことじゃん」
「壮士の墓だ」
年号が慶応から明治に改元された九月、清水港に停泊していた旧幕府の軍艦、咸臨丸が、官軍の砲撃をあびた。大半の乗組員は下船していたが、船にのこっていた者たちは白旗をかかげたにもかかわらず命をうばわれ、海へ投げすてられた。
官軍を恐れてだれもひきあげない。海にうかんで臭気を放つ骸に頭をかかえた漁師や廻船問屋を見るに見かねて、次郎長は船を出し、七体の骸をひきあげて向島に葬った。これが壮士墓で、感激した山岡鉄舟が次郎長と親交をむすぶきっかけとなった事件である。
今では鉄舟が「壮士墓」と揮毫した立派な墓碑も建ち、三年前には盛大な法要も営まれた。けんも初志郎も、この話は耳にたこができるほど聞かされている。
山岡鉄舟の紹介により、清水次郎長の養子に天田五郎がなりました。その天田五郎が「東海遊侠伝」を書きました。その「東海遊侠伝」に目を付けたのが講談の次郎長伯山と異名をとる三代目神田伯山です。次に、伯山の弟子の二代目広沢虎造が、これを浪花節に乗せて大ヒットさせました。
(清水歴史探訪より)
「浪曲や講談で東海一の大親分として知られた次郎長ですが、後半生は一転、海外にも目を開き社会事業家として地域の発展に貢献するものでした。その遺産は、今も清水港の一角で町の姿を見守っています。」
この番組は、JR清水駅近く、さつき通り沿いのいそべ会計がお送りしました。
いそべ会計について、詳しくはホームページをご覧ください。
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