2階に上がる階段があります。
(波止場浪漫より)
大正1(P21)
右には客用の小座敷がならんでいた。そのむこうに階段があり、台所がある。駿河湾と富士山をのぞむ二階の座敷は賓客用。隣接した家にはけんの姉一家が、裏の家には使用人が住んでいる。
家の間取りは引っ越してきたころと変わらないが、板間の天井から下がっているのは、ランプではなく電球だ。帳場の柱には掛け時計が、台所には、薪炭をつかうカマドの横にガスコンロがとりつけられている。
大正1(P21)
右には客用の小座敷がならんでいた。そのむこうに階段があり、台所がある。駿河湾と富士山をのぞむ二階の座敷は賓客用。
大正1(P28)
船宿の二階は、階段をのぼったところからぐるりと廊下がつづいている。出窓のある廊下の内側に、床の間つきの十畳間がふたつならんでいた。出窓は障子だから座敷は明るい。
おちょうの病床は奥の座敷にとってあった。
2階の座敷を見て、始めて、この『末廣』の向きが違うことが分かりました。聞いてみたら、この『末廣』の敷地は元銀行(スルガ銀行?)の敷地で面積の都合で、波止場に会った時は西にあった玄関が、今では南側にあるそうです。波止場に会った時には、二階の賓客用の座敷から駿河湾と富士山が見えたそうです。
2階には、人形が展示されております。次郎長は英語塾を開設したと言われております。オランダ語やフランス語ではなく英語塾というのが次郎長の先見性を示すものと考えます。なお、次郎長のところで英語を習ってアメリカを渡ったと言われている三保の川口源吉という青年がおります。この川口源吉が成功してアメリカから帰ってきました。この影響で、清水の三保地区ではアメリカへ渡った人が多く、私の子供のころは三保地区は「アメリカ村」と呼ばれたことがありました。今でも、相続の相談の時に三保地区の方の家系図を見ると、アメリカ人が出てきます。
(波止場浪漫より)
明治1(P44)
源吉は次郎長の英語塾で学んだ。だからハワイでも困らなかったと次郎長をもちあげたが、これは半分以上、お世辞だろう。
〈世界はオルト、商売はコムメルス、ボイランはボーイラン、つまりガキっ子走るで、ガルランはアマっ子走る・・・・・・〉
英語とは似て非なるものだったのだ。
波止場へ引っ越してから再開された英語塾は、横浜でイギリス人にしこまれた教師を招いているので、多少はマシになっている。