第二十二話 小芝神社と江尻城
小芝八幡宮(おしばはちまんぐう)
住 所 静岡県静岡市清水区小芝町4-10
電 話 054-366-4842
場 所 JR清水駅から徒歩15分
入 場 料 無料
目 次
今回は、戦国時代武田信玄が駿府を攻略するにおよび江尻城を築城した名残を訪ねて小芝八幡宮を訪ねました。小芝八幡宮は地元の人たちは小芝神社と呼んで親しんでいます。JR清水駅から歩いて15分くらいのところにあり、私の事務所からもそのぐらいの距離にあります。小芝神社に行く前に、江尻城の中に穴山梅雪の祀った「魚町神社」を訪ねました。
永禄11年(1568年)12月6日、武田信玄は甲府を出発し富士宮を通り、駿河侵攻の構えを見せました。迎え撃つ今川氏真は薩た峠で迎え撃つよう命じました。薩た峠は今でも人がすれ違うのが大変なくらい狭い峠です。しかし、今川軍に内通者が出たため、簡単に破られてしまいました。この時から、駿府は武田信玄が占領することになりました。
年が変わって永禄12年1月26日、今川氏真と姻戚関係を結ぶ北条氏政が小田原から駿河侵攻に出兵しました。この結果、第二次薩た峠の戦いが起き、武田軍は兵糧不足が発生したため甲斐に兵を撤退させてしまいました。
徳川家康はがら空きとなった駿府を占領し、江尻城もこのとき徳川家康に占領されてしまいました。
永禄12年(1569年)11月、武田信玄は駿河に侵攻を開始します。12月には再び駿府を占領し、駿河を完全に支配下に置いてしまいました。
この駿府占領により、城主穴山梅雪により江尻城の築城が行われ、江尻城が駿河の中心となりました。
天正3年(1575年)、長篠の戦いが起き、武田軍は織田・徳川の連合軍に壊滅的な打撃を受けます。さらに天正10年(1582年)、織田信長の甲斐侵攻が始まります。この時、穴山梅雪は織田信長に寝返り、甲斐侵攻に際し案内役を務めます。その功績により、織田信長より甲斐武田の後継ぎとしての地位を認められます。ところが、天正10年(1582年)、本能寺の変が起き、穴山梅雪は落ち武者狩りに殺害されてしまいます。その後、梅雪の嫡男勝千代が城主となりますが、天正15年に急死。その後、徳川家が後を継ぎましたが、慶長6年には廃城となりました。
今から400年以上も前にあった江尻城ですが、跡は全くありません。しかしながら、今でもその時の町名が残っています。鍛冶町、鋳物師町、伝馬町、二の丸町などの町名です。昭和になってから町名が変更され、江尻東○丁目などの地名になってしまいましたが、今でも町内会は旧町名で運営されています。ちなみに、いそべ会計は現在は真砂町ですが、昔は末広町です。
戦国時代は武運長久の勝負の神様だった小芝八幡宮ですが、平和の時代となった今ではサッカーの神様に変貌しております。Jリーグが開催する前から、清水ではサッカーが盛んでした。この「小芝八幡宮」と同じ宮司が管理している「魚町稲荷神社」はサッカー神社として知られています。特に、「魚町稲荷神社」は清水エスパルスが毎年必勝祈願に訪れます。