(清水歴史探訪より)
「このお寺の誕生はね、推古天皇の時代に、国主の久能忠仁によって創立されたということが歴史の始まりなんですね。」
「最初に建立された場所というのは今のこの場所ではなかったそうですね。」
「そうですね、このお寺が生まれたのは今の久能山東照宮の場所であり、日本平を中心とした山の一角ですね。今は、久能山東照宮となった場所に、元は久能寺や色々な物、お寺とか宿坊とかそういうものがたくさんあったようです。360もあったといわれるぐらいですから、宗徒は一千五百人を数えたという風に言われました。ですから、大勢の人が、この久能寺にお参りに来たわけです。
また勉強するための昔の寺子屋みたいな場所もあったんでしょうね。そうでなければ、そこで修行する人達が自分達の納得のいく修行ができませんからね。だから、そういう学業、勉強するための材料、本とかがあったと思われます。もちろんそこで皆に教えてくれるような力のある人物も、いたんだろうと思いますね。」
この寺は、戦国の波に押し流されて波乱の歴史を辿りました。
「久能山の上にあった久能寺が移ってきたのはどうしてなんですか?」
「武田信玄がね、天下を取るために山の上に久能寺の跡に自分達のお城を造って、天下を取ろうと思った。取る予定の中でね、きっと進んできたことだろうと思います。あの山の上からこの下へお寺を移して、そしていくつかのお寺が建つたのです。けれども、それが全部残っていないのですね。明治の維新の時には、7ヵ坊ぐらいは、残っていたようですがね。
少なくとも昔は、今の鉄舟寺がある場所に、色々なお寺があったようです。鉄舟寺が今の場所から前にある日立(日立製作所グループの工場)のあるあの辺までの間にあったんだと言われていますから。矢部一族が抑えている頃ですね。鉄舟寺の前身の久能寺も、時としてですね、盛大な力があった時も力が無くなった時も、色々ありますからね。今このお寺の近所にあるお寺さんは、大体、武田信玄の頃にはもう皆この辺にあったはずですからね。」