関門海峡は狭いうえ潮流が早く、潮の干満により潮流の向きも変わるという特徴があります。午前に始まった合戦は、開戦直後は激しい東流れの潮流を利用した平家が優勢に進めると、不利を悟った義経が掟破りの平家水軍の非戦闘員の水手・梶取を射させる戦法に出る。
昼近くに潮の流れが西に変わると攻勢は完全に逆転し、平家方に混乱が生じ、平家は壊滅状態となった。
敗北を悟った平家一門は次々と海へ身を投げていった。せめて大将の義経だけは道連れにと、平家きっての武将・平教経は義経の船に乗り移り追いつめるが、義経は飛び上がり船から船へと飛び移り逃げていった。俗にいう「八艘飛び」である。
死を決意した二位の尼(平時子)も、源氏が奪還を狙う三種の神器を身につけ、「海の底にも都はあります」と8歳の安徳天皇を抱いて入水した。後を追った帝の母・建礼門院(平徳子)は入水するが生き残り、京へ送還される。
海へ身を投げた平家一門の最後を見届けた知盛ら主要武将も次々と入水。総帥である宗盛も息子と入水するが、引き上げられ捕虜となり、壇ノ浦の戦いは終わった。
義経が頼朝の怒りを買った原因は、①許可なく官位を受けたこと、②梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、③義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失したことなどである。
まあ、後白河院と仲良くしたことも、頼朝には容認出来るものではなかったのでしょうね。
しかし、すべての原因は、梶原景時のチクリでは?
義経は郎党や愛妾の静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられる。
京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。途中、山伏と稚児の姿に身をやつし、伊勢・美濃を経て奥州へ向かう。(ここから歌舞伎勧進帳が生まれる)そして、正妻と子らを伴って陸奥(みちのく)平泉に身を寄せた。
奥州藤原家3代目藤原秀衡(ひでひら)は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187)に病没した。
頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡(やすひら)に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。藤原泰衡(やすひら)は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を衣川館に襲った。
義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。
そ の 後 の 梶 原 景 時 ( 讒 言 )
梶原景時の讒言(ざんげん)と呼ばれるものは、義経だけでなく、いくつものの事例があると言われております。讒言(ざんげん)とは、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うことだそうです。
讒言(ざんげん)が嘘とばれて、罰として梶原景時に、鎌倉の道路の普請が科せられたり、人望のある人物を陥れようとしたとして梶原景時は御家人たちからひどく恨まれたそうです。
しかしながら、武勇だけではなく、事務能力・実務能力に優れ、また和歌のひとつもこなせる梶原景時は頼朝の信頼は厚かったようです。
梶 原 景 時 の 変 ( 最 後 )
さて、頼朝が死んだ翌年、結城朝光という人が、ありし日の頼朝の思い出を語り「忠臣二君に仕えずというが、あの時出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」と述べたそうです。翌々日、御所に勤める女官である阿波局が結城朝光に「あなたの発言が謀反の証拠であるとして梶原景時が将軍に讒言(ざんげん)し、あなたは殺される事になっている」と告げました。驚いた結城朝光は三浦義村に相談したところ、御家人66名による梶原景時糾弾の連判状が一夜のうちに作成されたのです。
将軍頼家は、この連判状を梶原景時に見せて弁明を求めたが、梶原景時は何の抗弁もしませんでした。梶原景時は謹慎しましたが、その後、鎌倉追放を申し渡されてしまいました。
梶原景時は、自体が急変したのはすべて北条の仕業であると考え、北条追討のため、一族とともに京都へ上る決意をします。
正治2年(1200)正月、梶原景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立。途中、駿河国清見関にて戦闘になり、一族33人が討ち死にしました。『吾妻鏡』によると、梶原景時は上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に建てて反乱を企てたとなっております。