梶 原 平 三 景 時
梶原景時(かじわら かげとき)は、石橋山の戦いで敵の大将であった源頼朝を救い、後に頼朝の御家人となる。頼朝の信任厚く、教養があり、和歌を好み、武家百人一首にも選出され、「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。
一方で、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった「大悪人」と古くから評せられている。鎌倉幕府では権勢を振るったが頼朝の死後に追放され、一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。
後白河法皇は義仲に平氏追討を命じ西国へ出陣させると同時に、鎌倉の源頼朝に、上洛を促した。頼朝の弟源義経が近江国にまで進軍。一方の義仲は、法住寺殿を焼き討ちし後白河法皇を幽閉した。
頼朝は義経に義仲追討を命じ、ここに宇治川の戦いが始まる。
木曽義仲と源義経戦い間に勢力を立て直した平氏は、かつて平清盛が都を計画した福原まで進出していた。平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。
後白河法皇は、頼朝に平家追討と平氏が都落ちの際に持ち去った三種の神器奪還を命じる平家追討の宣旨を出した。
源氏方は範頼(のりより:頼朝の弟、義経の兄)が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手(からめて)軍1万騎を率いて京を出発した。なお、大手軍は正面から搦手軍は背後から敵を攻める。
この一ノ谷の戦いでは最初は梶原景時が義経の侍大将、土肥実平が源範頼(のりより)の侍大将になっていた。しかし、義経と梶原景時の気が合わず、梶原景時は源範頼(のりより)の侍大将になっている。範頼の大手軍に属した景時、景季(かげすえ)、景高父子は、大いに奮戦して「梶原の二度駆け(二度も敵陣に突入)」と呼ばれる働きをした。
一の谷の戦いは、義経の一の谷の断崖絶壁からの「逆さ落とし」と呼ばれる奇襲により源氏の大勝となる。
与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢(かぶらや:射放つと音響が生じる)を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。