(清水歴史探訪より)
秋月家は、漢の時代の大陸から渡ってきた、いわゆる帰化人と言う古い由緒があったようです。しかし、その後は波乱の歴史を歩みました。
「深雪(=朝顔)の養父、秋月家17代目の当主秋月種長(たねなが)は財部(たからべ)藩(=高鍋藩)の初代藩主となりましたが、男子がいなかったため、甥の種貞(たねさだ)を養子に迎えました。ところが、せっかく婿養子となった秋月種貞(たねさだ)は、国家老が独断的にやったため(病弱であったためという説もあります)、二代目の大名を次ぐことができなかったのです。
結局、この人(種貞:たねさだ)の子供、秋月種春(たねはる)が5歳でもって、財部(たからべ)藩(=高鍋藩)の二代目大名(秋月家18代目)になっているという、そういうことがあるわけですね。家老による傀儡政権になったから、高鍋にいたんじゃ身の危険を感じたから、上方下方(うえかたしもかた)騒動というお家騒動というさなかにある大名家だから、いたたまれなくなって、家出したという。そういうことが、脚色されて『朝顔日記』になってきたんじゃないのかな。」
(清水歴史探訪より)
御家騒動の経過など、お芝居の筋と実際の歴史とは食い違いもあるようですが、浄瑠璃の物語は、ハッピーエンドで幕を閉じます。モデルとなった深雪(=朝顔)の運命が気にかかりますが、それは、田辺さんが高鍋町(たかなべちょう)から持ち帰った資料にはっきりと書かれていました。
「これがあちらで、高鍋町(たかなべちょう)の方で、コピーしてきた。」
「系図ですね。」
「これ、どんなことが書かれているんでしょうか?」
「結局ね、寛永18年(1641年)辛酉(かのととり)4月18日、駿劦(するが)志水浦(しみずうら)において、同国、江尻法岸寺に葬るとしてある。そして、なぜ志水浦(しみずうら)かということになりますと、深雪(=朝顔:本名 久)が嫁いだ山下氏が志水浦(しみずうら)の公役、船手奉行さんですね。」
「ここの文書に出てくる法岸寺というのが、今祀られているこのお寺というわけなんですね。」
「船手奉行ですね。」
「船手奉行とはどのようなお仕事なんですか?」
「結局ね、港の取締りと、いざというときは敵軍を、軍船でもってですすね。艦隊長で、港の管理者でもあるわけですからね。三隻の船を持っていたと聞いております。」
「そうしますと、かなりの実力者であったというわけですね。最後はその人の奥さまとしてここに葬られたわけですね。」
「結局、このすこし東に役宅があったから、今の入江岡の所じゃないですかね。入江岡の駅の下手側に船手奉行さんの役宅があったんじゃないですかね。」
波乱の人生を生きた深雪(=朝顔)は、最後はこの地に根を下し、船手奉行の奥方としてその生涯を閉じました。そして、今も確かに、この法岸寺に眠っているのです。