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5.秋月家の歴史
16代目秋月種実(たねざね)
筑前筑後
高鍋城址
延岡(県)城址
延岡城址

(清水歴史探訪より)

秋月家の16代目の秋月種実(たねざね)は、筑前筑後に36万石の所領をもっておりました。ところが、豊臣秀吉の九州征伐で、豊臣軍に降伏、隠居してしまいました。

16代目の秋月種実(たねざね)の長男、17代目の秋月種長(たねなが)は、豊臣秀吉の九州征伐の後、同じ日向の国の高鍋城(たかなべじょう)に移され財部(たからべ)藩(=高鍋藩)の初代藩主となりました。高鍋藩は3万石しかなく、現代の高鍋町も人口が2万ちょっとしかありません。高鍋藩は小さな藩なのです。

そして、17代目の秋月種長(たねなが)の弟で高橋家へ養子に行った、深雪(=朝顔)の実父である高橋元種(もとたね)は、秀吉に功績を認められて、延岡(旧:県あがた)の6万石の城主となります。

日向の国、財部(たからべ)は、財産の財の字を書いてタカラと読みましたが、現在の地名は高い鍋と書いて、高鍋(たかなべ)となっています。

 

「放送で、たまたま上杉鷹山さんの話が出て、鷹山は高鍋(たかなべ)から来たと。上杉家へ養子に行ったとありましたので、それで高鍋町(たかなべちょう)というのがわかったんです。それで高鍋町(たかなべちょう)の総務課宛に、こういううちの方にお墓があるんだけど、確実にその人の経歴があるんですか、と問い合わせをしたんです。そうしたら、むこうからモデルになった人(本名は久)は、深雪(=朝顔)の実父である高橋元種(もとたね)の兄の17代目の秋月種長(たねなが:財部藩初代藩主)公の養女であると向こうで書いてよこしてくれたんですよ。

そして、高鍋町(たかなべちょう)へ来たら、色々ご案内しますと、言われて、行ったらほとんどの所を案内してくれたんですよ。資料館から高鍋城(たかなべじょう)などあっちこっち。」

上杉鷹山
上杉鷹山
高鍋町役場
高鍋町資料館
高鍋町は人口が2万人ちょっとしかありません

(清水歴史探訪より)

「そこで、秋月家は随分古い由緒のある立派な御大名であったということがわかったのです。

それから調べていったら、秋月家の出は劉邦(りゅうほう:前漢の初代皇帝 西暦前202-195)から出ているんです。三国志の前劉邦の子孫劉備玄徳(りゅうびげんとく)というと、三国志(西暦180-280)に入ってくる。そういう謂れがある経歴ですね。

於美阿志(おみあし)神社
 
 日本へ渡ってきた最初の人、阿智(おち)使主(おみ:敬語の一種)は奈良県の高市郡(たかいちぐん)明日香村(明日香村)。於美阿志(おみあし)神社の祭神として祀られていると。それを探すのにまた苦労したんです。 

それから今度は深雪(=朝顔)の実父である高橋元種(もとたね)が移住したとおもわれる遠州の本郷、浜松の能光寺へ訪ねたんです。

ところで深雪(=朝顔)の実父である延岡(旧:県あがた)の城主高橋元種(もとたね)は、慶長18年(1613)幕府の罪人を匿ったとして、改易処分となってしまいました。

おそらく、改易処分が原因で、深雪(=朝顔)は、高橋元種(もとたね)の兄である財部藩(=高鍋藩)の初代藩主である17代目の秋月種長(たねなが)の養女となったと思われます。

改易処分後の高橋元種(もとたね)の足跡を追って能光寺を訪ねました。

能光寺さんでは、高橋家の総本家としての高橋宗左衛門家の本を読むと、明治始めに仏教から神教に改めた。現在は墓地はあっても墓標はなかった。ただ小さなものが置いてあっただけだった。あとは皆分家の衆のお墓はあっても本家のお墓はなくて、自分のうちの前に祀ってあったと。」

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税理士法人森田いそべ会計
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TEL.054-364-0891
代表 森田行泰
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■東海税理士会所属
■日本公認会計士協会所属
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