(清水歴史探訪より)
赤い靴の女の子として伝えられるきみちゃんの物語ですが、きみちゃんが生きた当時はまだ戸籍がしっかり作られていなかったり、記録があいまいだったりと、不明確な部分もたくさん残されています。この為、様々な研究者から異なる説も発表されています。
ただ、まだ日本が貧しかったこの時代、きみちゃんのような運命を辿った子供達は少なくなかったようです。」
「今は平和ですよね。かわいい自分の娘、子供を手放すかってことはどれだけかと。でもかよさんは境遇が大変だったと思うんですよ。今、現在私達は幸せだなと。大事に生きて行かなきゃいけないなと思います。できるだけ、ご案内をするときにはすごく厳しくさみしい。それからどちらかというと、きっとかよさんはここで、きみちゃんを産んでつらい思いをされたと思うんですけれども、それは悲しいお話として残しておきながら、私はここのところに見学に観光でいらした方については、よく泣く方がいらっしゃいます。涙を流す方が多いです。でも、せっかくここのところに来たものだから、あとはちょっと涙を流しながらお帰りになる時には、先ほどの様にこの寄付したのはエスパルスの方がいて、と言ってちょっと笑いというか笑顔が戻るようにお帰り頂くようにしています。」
青森県鰺ヶ沢町(あじがさわまち) 赤い靴 『親子三人像』
平成22年に、義父 鈴木志郎の生まれ故郷、青森県鰺ヶ沢町の海の 駅「わんど」に 創られました。家族愛をテーマに「すべての家族が幸せになりますように」との願いが込められているそうです。
(清水歴史探訪より)
「実際にこの像の様に、お母さんは和服を着て日本髪をしていらっしゃって、きみちゃんの方は洋服でこれはもう外人さんの所に一緒に出掛けるのかなという雰囲気もあるんですけれども。こういうシーンはもしかしたらあったかもしれないという?」
「最後まで、お母さんは、昭和23年に亡くなっているそうなんですけれども、最後まできみちゃんには会えず終いだったものですから。だから結局は3歳の時に分かれたっきりだもんですからね、別れた時にこれを着てたかどうかはわからないですけれどもね。どうでしょうね。この場面があって、あったんじゃないかと思っていもいいじゃないですか。」
「表情もおだやかなので」
「はい、富士山の見える所で、生まれた地でね、『きみちゃん』、『お母さん』ってきっと会っていらっしゃると思います。素敵な表情ですよね。」
「そうですね。」
日本平山頂に立つきみちゃん親子の像は、当時懸命に生きた人々の姿を象徴するものなのかもしれません。
お話は駿府ウエイブの照澤香代子さんでした。
サンディエゴ 赤い靴の女の子の像
山下公園の少女像設置から30年を迎えたことなどをきっかけとして、サンディエゴに像が建てられました。
(清水歴史探訪より)