4.井上馨の人物像
(清水歴史探訪より)
この広い敷地で、井上馨は、地域産業の振興策など、先進的な計画を練っていたようです。
「周りを見ますと、みかん畑と書いてあるところが多いんですけれども」
「一代目の井上馨が、すごいみかん栽培に力を入れて、地域の産業にもなるということで、栽培から指導まで始めたおかげです。全部で収穫量の多い時は、5万貫か6万貫と言ってました。
柑橘(かんきつ)の勉強させる為に、見習い生の宿舎というのもあって、鹿児島や長崎とかあっちの方面からも絶えず人が来て勉強したようです。みかんはもちろんそうですけれども、興津の駅の北側の園芸試験場。あれは井上馨が造ったんです。今後、外国と交流するには、果物はもちろん、野菜、花、なんでも作れと。そういうことで、作らせたんです。」
「ポトマック川(ワシントン)の河畔にある桜が、この興津の試験場で作られたということですね。」
「はい、最初に、東京の尾崎市長を通して送ったのですが、それには害虫が付いて、全部焼却処分を受けたそうです。二回目に送る桜は、興津の(柑橘の)試験場で作って完璧だという事で、相当の数の桜の種類を送ったんです。それが今、テレビで出てくるポトマックの桜です。その仲間はこの屋敷の中にもあっちこっちあったんです。当時はものすごい大木になったのです。しかし、戦争が激しくなったら、軍の命令で国道から見えるものはそういうものは切れという命令でほとんど切ってしまったんです。」
(清水歴史探訪より)
歴史の本を見ると、決まって厳(いか)めしい写真が掲載されている井上馨ですが、実際はどんな人物だったのでしょうか。
「もう一見見ただけでも、恐ろしくなるくらいの顔つきだったそうです。右顎の下に刀の傷が残っていました。亡くなった時は、東京から軍医が来たり、静岡からも医者が来ました。そして倒れた時は、人工呼吸を一生懸命しました。その時初めて、生々しい刀の傷跡が背中から前まで物凄いのがあったそうです。医者もびっくりして唖然としていたそうです。」
「普段の井上侯爵というのはどんな方だったんでしょうね。」
「もう余分なことは言わないらしいですね。写真見ただけでもびっくりするほど、きつい顔していますけれども、すごい親しみがあるのです。やっぱり人間ができていて、それだけ違うんですね。
清水の横砂から興津の海岸を散歩していた時のことです。その時、漁師の方から『魚が自由に捕れない』という話を聞いそうです。それというのは、県に漁業権があって、『ここからここまでは捕っちゃいけないぞ』と言われていたそうです。そういう話を耳にして、それは県がけしからんということで、鶴の一声で、県の漁業権は廃止になっちゃったそうです。それからは、自由に魚が捕れるようになったそうです。それから1年に何回か、漁師の方(かた)は地引網を引いて、生きている魚をちゃびつ(清水では茶箱のことをちゃびつと呼んでおりました)いうお茶を入れる、中にアルミ箔を貼った大きい箱があって、それに生きた魚を入れて、海からずっとリアカーで運んできたのです。僕も小さい時に2回ぐらいそれを覚えているんですよ。ここまでずっと付いて行って。ここまで、屋敷の中まで持ってきたんですよ。横砂、興津の人達のことを大事にしたんですね。」