3.『長者荘』の話
(清水歴史探訪より)
「建物も大きかったということだったんですけれども。」
「下が100坪、上が100坪の総二階です。これは群馬県から明治28年にこっちへ持ってきたそうです。
それからその横に平屋建ての離れがあって、これは東京の鳥居坂というとこから持ってきたそうです。これは、東京に建物がある時、明治天皇がそこで歌舞伎をご覧になった、由緒ある建物です。
それからその間に鉄筋コンクリートの蔵がありました。これも戦争でほぼ崩れました。その鉄筋コンクリートの蔵というのが、日本で最初に鉄筋コンクリートで造った蔵と言われているんです。
建物の中にも入ったんですよ。誰も住んでいない時は、一年にいっぺん(一回)ずつ大掃除もしたりして。」
「建物の中というのはどんな様子だったんですか?」
「すごい広いですよ。建物の中央に二階への階段がありました。その階段が幅が広くて大きくてね。そしてそのすぐ下側に井上馨が仕事をした部屋がありました。そこを蝶々(チョウチョ)の間って言ったのです。なぜかというと押入れの戸に、漆を塗った戸があったのです。そこに貝細工で蝶々やトンボをはめこんであったのです。それがすごく印象に残っています。そういうのも全部焼けてしまったんですよ。
二階は、広いので会議をしたり、お客さんが来たりしてね、みんなの集まるところでした。」
「お庭も広かったようですね。」
「絶えず常雇いの植木屋が必ず1人、多い時は3,4人は入りました。いつも芝生の手入れや植木の手入れをして、きれいにしてあったんです。それというのも、いつ東京の方から政治家がくるかわからないものですから、絶えず綺麗にしてあったんですよ。
ここに蘇鉄がね、当時樹齢3百年と言われたくらい大きい蘇鉄があったのです。昭和30年くらいかな、清水市に寄贈しまして、清水の今の区役所の駐車場の横に大きなのがありますが、それが寄贈したのです。」
「区役所に今も大きな蘇鉄がありますが、これなんですね。」
「大きいですね。」
(清水歴史探訪より)
「波多打川の横の所には池もあったんですね。」
「ええ、これは約300坪ぐらいの面積の池で、池の中にもまた島があって、銅でできた鶴、亀、雪見灯篭。これもまたすごかったです。銅像があった庭の東側、ここにライオンがあったんですよ。長さ4、5メートルのライオンで、もう顔なんかも生きた動物と同じで。これも戦争中、供出(きょうしゅつ)しまして、銅像のライオンの像も供出してしまったんです。
全部、あの有名な岡崎雪聲(おかざき せっせい)という物凄く上手な銅像を造る人が。東京にある楠木正成(くすのきまさしげ)とか、明治天皇の銅像がその人の作ったと。」
「駅もあったんですか?」
「ええ、常時あるわけではなくて。なにか大きな園遊会とか、東京から偉い人が来ると仮のホームを造ったんです。ここで乗り降りすると、真っ直ぐここに来られるものですから。」
「駅を降りたらもう敷地内と。」
「そうですね。無くなった時も、ここへ列車が止まって、関係者が乗って東京の日比谷公園へ行ったんです。」
「この駅の跡というのは、今どうなっているんですか?」
「ちょうど土手の様になって残ってますね。コンクリートを吹き付けてなってますけど。」
「では今はちょっと見ただけでは駅の跡とはわからないんですか?」
「わからないですね。場所だけはこの辺だということで、今見ても全然わからないです。」