3.軽便鉄道の話
(清水歴史探訪より)
さて、街道を行き交う旅の手段は、時代と共に変化してきましたが、明治になると、当時の最先端の交通機械もやってきました。
「次郎長さんが『清水港(しみずみなと=しみず波止場)に岸壁を作るんだ』ということでもって、江戸時代以来の廻船問屋(かいせんどんや)さん達、みんなに訴えて、岸壁を作ることができたんです。
その時の廻船問屋のリーダーが播磨屋(注1)さんという廻船問屋さんで、とりあえず、それで岸壁ができた。
そうすると明治政府がすごくびっくりしたのです。昔はお茶は清水から横浜に持って行ったのです。それが清水港(しみず波止場)から直接輸出してもいいんだよ、といったような形になったのです。」
(注1)播磨屋は江戸時代初期に誕生した清水湊の廻船問屋の屋号である。創始者は山本作右衛門高吉といい、播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県南西部)出身ゆえ屋号を「播磨屋」を名乗った。以降、当主は代々「作右衛門」を世襲したが、6代目で家系が消滅した。この時代の「播磨屋」は、分家の「播磨屋与平」である。「播磨屋与平」は、鈴与の創始者鈴木与平である。
「そのお茶ですけど、静岡に『茶町』っていう所があって、いっぱいお茶問屋があるんだけれど、そこから清水港(しみず波止場)までお茶を運ぶのに、軽便鉄道(静岡鉄道)が使われました。軽便鉄道は、今現在の静鉄の電車ですけれど、その鉄路がこの東海道を使っていたのです。
この『追分羊かん』の前のこの現在の道ですね。この道をその鉄路が走って、清水の方にお茶を運んだわけです。
この前を通って、入江小学校の向こう側、入江岡の方へ向かって線路があって、その入江岡の所から新清水の方に行って、新清水から港(しみず波止場)の方へ行ったと聞いております。
「大切な物を運んだ道が、江戸時代には参勤交代なんかがあって大名が通ったり、馬子(まご)が人を乗っけて通ったりしたでしょうけど、静岡鉄道(軽便鉄道)さんが通って、そして現在に至ったわけですね。」
現在、静岡鉄道の線路は少し南に移って、JR東海道本線と並んで走っています。お茶を運ぶ貨物列車は姿を消してしまいましたが、静岡市の中心街を結ぶ大動脈として今も重要な役割を果たし続けています。
-----ガタンガタン(電車が通る音)-------