追分羊羹というのは私の郷里清水の名物である。「名物にうまいものなし」というがこれは例外であろう。素朴な竹皮包みの蒸し羊羹で、関西のあの丁稚(でっち)羊羹に似ているが、味も香りも比較にならないようである。追分羊羹のうまみは、あらゆる上等の銘菓を食べ飽きたひとの舌にこそ、ほんとうに味わえるものではあるまいか。
レッテルや容器でごまかされるような人には、すすめたくないものだ。見たところは貧弱だし、およそ近代の食料品という感じはしないし、その味も人を馬鹿にしたような淡々としたものである。だが、その中に含まれている深い風味は、道端で埃にまみれた石地蔵の、ふと驚くべき彫りの美しさに、出会したときのようなうれしさである。「してやられた」ようなうまさと言ってもいい。
こんなものが余り人にも知られず、三百年の歴史をひそめて、しずかに生きているところに、私は何か日本のいのちのようなものを感じさえする。上品に切ってたべるのもよかろうが、私は一本ぐるみ皮をむいて、むしゃむしゃ食べるのが好きである。いかにもこの羊羹にふさわしいような気がするのだ。
なにもかもぴかぴかしてきらびやかな近代のなかにあって、この羊羹のような古めかしい野育ちのものに出会うと、せつない郷愁にも似た、それせいてそこはかとない、安堵のおもいに浸たれるのは何故であろうか。
以上が長田恒雄さんの『追分羊かん』に関する感想であります。それでは『清水歴史探訪』に移らさせて頂きます。
(清水歴史探訪より)
蒲原、由比、興津、そして江尻から府中へ。
清水歴史探訪
毎月月第二土曜日のこの時間は、清水区内各地に残された歴史の香りを訪ねます。
日本の東西を結ぶ幹線交通路の一つである東海道では、沿線への各地へと続くいくつもの
分かれ道がありました。
現在の清水区内にも、国道一号線とJRの東海道本線に挟まれるようにして、街道の分岐
を意味する追分という所が残っています。古くからこの地に店を構える『追分羊かん』の15代目、府川充宏さんを訪ねました。
「『追分羊かん』のお店の中にお邪魔をしているんですけれども、このお店の建っている場所というのが、そもそもとても昔からの由来のある場所なんですね。」
「はい、ここは東海道の追分、清水の追分なんですけれども、東海道と清水湊(しみずみなと)に行く志ミづ道(清水道)の大切な交差点であります。交差点だから追分といいます。うちは、もうこれで320年ぐらい羊かんをやっているのですけれども、東海道の追分の昔からの羊かんというところでもって、『追分羊かん』という名前に自然になりました。」
「その東海道なんですけれども、どちらの道が東海道になるんでしょうか?」
「東海道はですね、このお店の前の道、この道が東海道でして。昔は松並木がまだ残っていたそうですけれども、戦争の時に油を取るとかいってなくなったそうです。」
「松並木があった頃というのは壮観だったでしょうね。」
「そうですね、松並木があって下を大名行列が通る、なんていうのは映画なんかで観たことがあるけれど、そういう雰囲気でしょうね。」
「そして志ミづ道(志ミづ道(清水道))というのはどこから分かれたわけですか?」
「志ミづ道(清水道)といいますのは、私の店の東方に細い、そうですね、2メートルぐらいの幅の道があるんですけども、その道を40分くらいかな、てくてく、てくてく、歩いて行くと、『清水湊(しみずみなと)(海ではなく巴川)』に行きます。それが志ミづ道(清水道))といいます。」
「今は細い路地のような感じに見えるんですけども、かつてはここが重要な交差点だったわけですね。」
「そうだと思います。清水湊(しみずみなと)に行く道は、この道一本ではなくて、もっとあったと思うんですけれども、とりわけて大切な交差点だから、追分という名前になっているわけです。だから他の道よりもこの道を使って、例えば清水湊(しみずみなと)に揚がった、たくさんの荷物を大八車(だいはちぐるま)のようなもんで運ぶ、とか。ここのお魚を十キロ離れた駿府の町へ持ってくとか。いろいろあって賑やかだった場所だったと思います。」