5.次郎長の船宿『末広』を訪ねて
(清水歴史探訪より)
動乱の時代に、波乱の人生を歩んだ次郎長ですが、その人生の幕は静かに下されたようです。
「次郎長が船宿『末広』を船着き場に、明治19年11月にオープンして、そこの二階でお蝶さんの手を握りながら息を引き取ったということになっております。
明治42年ですが、ちょうどこの17回忌の時に報知新聞にですね、お蝶さんが回顧談を載せているんです。
『次郎長はとにかく人の顔をみると金をくれてやるのが好きで、次郎長が帳場に座っていると商売にならないんですよ』と、いうんですよ。
『みな、客に金をやっちゃう』と。『それで困ったもんだ』という回顧談がいろいろ出ております。」
「その建物が再建されて建っていますけれども」
「ええ、場所は違う所にあります。建物の外観とか、いろいろ残っていた部材を使って、再建していますね。
昭和13年まで波止場にありまして、昭和13年に桜橋の北側の方に移転されました。
その建物が解体されて、部材が処分される寸前に、次郎長のゆかりの建物だということになり、その部材を残してもらったのです。
実に不思議なことですね。部材が残るように残るようにいろんな事が重なりました。
再建された建物の柱を触りながら、これが次郎長が触っていた柱かなあ、なんて思ったりして触っております。
部材が残ったのが不思議でしょうがないです。」
「あの建物が元々あった場所というのは、今、次郎長堤が残っている近辺 ?」
「ええ、次郎長堤の近くです。あのちょうど浪漫館の前辺り。
その『次郎長宅跡』という石碑を建てまして。その20メートルぐらい近くに建物があったということですね。
芝野栄七さんの養魚所が隣り合わせだった。
それを徳川慶喜が両方ともバッチリ撮っているんですね。」
「写真に?」
「写真に。漁村みたいに映ってますが。徳川慶喜はそれに題名もなにもつけてませんが。次郎長が住んでた家であるとわかって、写しているはずです。
これもまた不思議な話ですが。」
「慶喜さんと次郎長の縁もかなり深かった?」
「深いですね。新門辰五郎は徳川慶喜さんのボディガードというガードマンを自認していました。
明治になって江戸へ引き上げる後を次郎長に託したんですね。
それのお礼にあの将軍時代に身につけていた熨斗目(のしめ)という絹織物をお礼に送っています。」
徳川慶喜(けいき)とは、徳川幕府最後の将軍だった徳川慶喜(よしのぶ)公です。
明治維新前の派手さに隠れた次郎長の功績。しかし、その恩恵は平成の現在を生きる私達にも及んでいるのです。
お話は次郎長を知る会の田口英爾さんでした。
次郎長の船宿『末広』は、現在巴川の河口近く、港橋のたもとに移築され、無料で一般公開されています。
清水歴史探訪
お相手は石井秀幸でした。
この番組はJR清水駅近く、さつき通り沿いの『いそべ会計』がお送りしました。
『いそべ会計』について、詳しくはホームページをご覧ください。
田口英爾先生は平成25年3月22日、82歳で永眠されました。
『清水歴史探訪』に出演して頂いたのが、最後の音声録音となってしまいました。私とアシスタントが『清水歴史探訪』のお礼に伺った時には、入院中で会えませんでした。会ってお礼を言わないまま、残念ながら、帰らぬ人となってしまったのです。
『清水歴史探訪』に出演して頂き誠にありがとうございました。
ご冥福をお祈りします。