2.徳川信康公の話
(清水歴史探訪より)
この寺は、徳川家康の長男、信康公の悲劇の物語で知られています。
「(この辺り)ちょっと、こう古めかしい感じになってますけれども。」
「その(信康公の)お墓自体はね、五輪塔というんですよ。その亡くなった人の天正7年の9月15日(1579年10月5日)、この時に造ったお墓そのまんまをね。
(信康公の墓は)、昔は、本堂の裏にあったんですよ。大きくて本堂と同じくらいで、御廟所(ごびょうしょ)って名前で、綺麗にお墓が立派に祀ってあったんですが、明治維新になってから、移させて頂いて、小さくさせてもらったんです。
この信康公は、なんで亡くなったか説明します。
信康公は、遠州二俣城に蟄居(ちっきょ)されたんですよね。
信康公は、岡崎城に自分の本城を持っていたもんですから、岡崎三郎信康と呼ばれていました。
ノブという字は信長の信、ヤスという字は家康の康を、取ったわけです。信康公は、信長の娘を奥さんにして、そして家康の長男なんです。
信康は勇猛果敢で頭が良かったんです。信康公のお母さんが、築山御前(つきやまごぜん)と言いまして、今川義元の重臣の関口親永という人の娘なんです。関口家と今川家とは、ものすごい深い繋がりがあるんです。
ご存じの通り、今川家は織田信長に、桶狭間で滅ぼされましたね。一説によると、信康公とお母さんの築山御前とが、今川家滅亡を恨んで、武田家に内通した?んですよ。
そのことを、徳姫(信長の娘、信康の妻)が、織田信長に宛てた十二か条の手紙に書いてあるんですね。その手紙を証拠にして、「信康は武田側と内通してたんだ。」ということで、信長の命により切腹させられるわけです。
徳姫の手紙の文面、十二か条の中の二か条について弁明ができなかったということで、切腹。まあ、信長は最初から殺すつもりでいたんですよね。この人がいたら邪魔だと思ってね。
家康はね、その当時はもう信長の下の下だから、自分の子供を助けよとは言えなかったんですね。
それを察して、信康公は私が家の為にといって、腹を切ったのが天正7年9月15日ですね。二十一歳と書いてあります。
信康公は、幽閉先の二俣城(浜松市天竜区)で切腹されました。その当時の二俣城とここでは距離が離れていて遺体を運んでくることはできなかったんです。仕方ないので遺髪を持ってここの住職の姪が傍にいたので持って来て葬ったと。
そして五輪塔が建ったわけですね。
徳川さんが天下をとってから申し訳なかったということで、大きな五輪塔とか御廟(ごびょう)を造って本堂の裏にまた造り替えたわけですね。」
「ではやむをえなく…」
「やむをえなくね。それとまあこの人は徳川家を守る為には自分は死んで徳川家を存続させようと考えたんですね。信康公の切腹の前に、お母さんの築山御前(つきやまごぜん)が切り殺されまして、この方は浜松の方に葬った。
この信康公は、一番最初は二俣城の傍の清瀧寺さんに葬ったんです。そこにも御廟所(ごびょうしょ)があるんじゃないかな。そして改めてこちらへ持ってきたわけですね。
家康公は、信康公を、二俣城に入れる前に浜松城とか岡崎城とに、転々させているんですよ。というのは、おそらく、その間にお城から逃げさせたかったんですね。
ところが、この人(信康公)は、逃げるということはしたくない、そんな疑われるようなことをするなら死ぬっていう気持ちでいたんですね。
あの時、逃げていればね、本能寺の変が起きて、信長が死んじゃったから、その後、徳川家の第二代になったので、この人長男ですからね。徳川二代目の秀忠公は確か第三男じゃないかな?お母さんもお愛の方だったと思います。
本当ならこの人(信康公)が、徳川総家を継ぐべき人間だったんです。将軍になるべき人間でしたね。頭もいいし、武術に長けているし、家臣の信頼も厚くてね。
家光公の時代になってから、葵の紋を付けて結構ですと、寺に、許可証が来たわけで、それであちらにあっちこっちに、葵の紋がついております。その時から、徳川家の紋をお寺の寺紋(じもん)にしたわけです。
昔はね、徳川家からこの江浄寺は、保護されてました。蔵があって、そこに、鎧とか兜とか薙刀(なぎなた)とが、たくさん全部収まっていました。ところが、戦争の時に先代が、鉄の供出をさせられたわけです。そして没収されてしまったんですね。
日本のその当時の国策で、家光公が寄進した鐘撞(かねつき)堂の鐘も没収されて無くなっちゃったもんで、昭和52年に新しく鋳造して造り替えたわけですね。」