3.小島陣屋跡から見た風景
(清水歴史探訪より)
「小島の町が見えますけども」
「今ちょうど、先ほど下から見上げた石垣の上に立っているんですけども、あ、小島が一望ですね。興津川の所まで」
「もう一つ、大事なことがあるんですが。ここはあの甲州口の要衝なんですね。で、承元寺(しょうげんじ)と谷津の間、ここにですね、狭くなってますけれども。
ここはですね、いわゆる甲州の方から下ってきたのが、ここをどうしても通らなければならない。そのような荒くれ者の為に、要衝として、関所のようなものですね。それを造ったと、そのように言われております。」
「ではここから見張っていれば、街道を通ろうとする敵軍の動きが一望なわけですね。」
「刀を抜いて暴れまわってきた侍も、浪人もここへ来ると、きちっと鞘を納めて頭を下げてと、そういう話を聞きましたね。」
「こうやって見てみると、この場所に作った意味というのがよくわかりますね。」
「こちらの方に山がありますね。」
「ええ下流の方ですね。」
「そうです。ここには武田のお城がありました。山城ですね。そしてここからですね、敵が攻めて来た時に、
写真は、武田信玄の出城『横山城の跡』
ここの左にずっと行った方」
「上流の方に」
「はい。丸い山があるんですけども、『陣馬山(じんばやま)』という山です。のろしでもってですね、伝え合ったと。そして『陣馬山(じんばやま)』にものろし台というのが残っております。」
写真の左端が、陣馬山
「その当時というのは、このあたりとの本当に軍事的な要衝だったんですね。」
「そうなんですね。」
「さらにもう少し上がって、広い平らな場所が出てきました。」
「ここが陣屋のあった場所なんですね。今、ハウスがありまして。ハウスの向こう側あたりに殿様の居室、いわゆる書院がありました。
そして書院からですね、南の方へ行きますと、竹藪になってますけども。あそこに桜の木や紅葉の木が植えてあって、花山という名前が地元で今でも皆さん言ってます。それで殿様はそこで春夏秋冬、花を見たり、紅葉を見たりしていた、と聞きます。
この陣屋の跡が、国の文化財に指定された時にですね、大勢の方が見えるようになったんですね。そこで広い場所も欲しくなりますし、休む所も欲しいと言うことで、この広場を地主から借りまして、草刈から整備してやったわけですね。」
「そうしますとこのあたりにお殿様がいらっしゃって、襖を開けるとちょうど町が見えるという。まさにここから一望なわけですね。
ちなみに駿府城とか江尻城のような城という物と陣屋というのは、大きな違いとしてはどんなものがあるんでしょうか」
「一万石以下の殿様は、お城が持てないんですね。陣屋という形でもって持つことはできる。陣屋というのは、いわゆる役所という場所ですね。
ただここの珍しい所は、さきほど言いましたように石垣がたくさんあって、周りには沢を使った堀のような、模した物があるということですね。非常に珍しい城のような形の陣屋として指定されたわけなんですね。」
「それでは、小島城という言い方もあながちハズレではないわけですね。かなり実践的な造りだったわけですね。」
「そうですね。でも、宝永年間(1704年~1710年)ですから、もう世の中も平凡になってきてますので、形だけであったと思います。」
「では実際にここでは激しい戦いというのはなかったということですね。」
「松平家の殿様の者ですから、徳川さんの関係の方ですね。ですからここを非常に重要視されていてですね、江戸時代から明治にかけてですね、大事な人達がこの小島に来ているんですよね。」