泣き羅漢。笑い羅漢。おこり羅漢。瞑想に耽ける羅漢。人間の持つさまざまな表情を見せるこの群像は、見る人の魂に安らぎを与えてくれるのだ。私の好きなお方は、両掌をひろげて肩をすくめ「どないもなりません!」と言っているような現代的で身近な羅漢さんである。
明治二十九年のお話しである。清見寺の近くに「長寿荘」という別荘があった。ここの主(あるじ)で政治家の井上馨(かおる)が、この五百羅漢の一体を自分の庭に置きたいと考えていた。そこである時、住持の宗詮和尚を水口屋に招き御馳走をしてこの話を持ち出したのである。和尚は何とも返事をしなかったが、一枚の短冊を残してさっさと寺へ帰ってしまったという。
和尚をだまして牛肉食わせ
三界萬霊塔
三界とは、欲界、色界、無色界の3種の世界である。欲界とは、食欲、性欲、睡眠欲などの欲望の世界で、色界は欲望が無くなった世界、無色界は形のあるものからはなれた純粋な世界を指す。萬霊とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指し、三界萬霊塔は墓地の入口や中央などに置かれることが多いようである。
明治5年(1872)~ 昭和18年(1943)
『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。
桜の実の熟する時
島崎藤村著
小高い眺望(ながめ)の好い位置ある寺院の境内が、遠く光る青い海が、石垣の下に見える街道風の人家の屋根が、彼の眼に映った。
興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に、ちょうど人体をこころもち小さくした程の大きさを見せた青苔(せいたい)の蒸した五百羅漢(ごひゃくらかん)の石像があった。
起(た)ったり坐ったりしている人の形は生きて物言うごとくにも見える。
誰かしら知った人に逢えるというその無数な彫刻の相貌(そうぼう)を見て行くと、あそこに青木が居た、岡見が居た、清之介が居た、ここに市川が居た、菅も居た、と数えることが出来た。連中はすっかりその石像の中に居た。
捨吉は立ち去りがたい思いをして、旅の風呂敷包の中から紙と鉛筆とを取出し、頭の骨が高く尖(とが)って口を開いて哄笑(こうしょう)しているようなもの、広い額と隆(たか)い鼻とを見せながらこの世の中を睨(にら)んでいるようなもの、頭のかたちは丸く眼は瞑(つむ)り口唇は堅く噛(か)みしめて歯を食いしばっているようなもの、都合五つの心像を写し取った。
五百もある古い羅漢の中には、女性の相貌(そうぼう)を偲(しの)ばせるようなものもあった。磯子、涼子、それから勝子の面影をすら見つけた。
『桜の実の熟する時』p187より